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2010年11月 2日 (火)

終戦直後に復興金融公庫により大量発行された国債が日本を救った(No.11)

現在、政府が国債を大量発行して景気対策をしデフレ脱却を試みようとしないのは、終戦直後のインフレの再来を恐れているからだと言われている。しかしそれは誤解にすぎない。当時の経済を詳しく調べれば、インフレは国債の大量発行も原因の一つではあるが、むしろ物不足が原因で貨幣の流通速度の上昇したのがより大きな原因になったものだと分かる。国債の大量発行は、生産力を回復させ、物不足を解消させるための緊急措置であり、実際生産力が回復した1950年以降はインフレは起きていない。

終戦の翌年の1946年、日本のGDPは戦前のピーク1938年の2分の1まで下がり、鉄鋼の生産量に至っては戦前の7%という有様だった。外地からの復員や引き揚げによって国内人口が増加するなかで、食料物資の不足、住宅の不足が極めて深刻となり、需要が供給を大幅に上回り、それに加え終戦処理の財源を通貨発行で対応したために、激しいインフレとなった。

生産力を増強するには、電力の供給を増やさねばならず、そのためには石炭供給の増強が必須であった。石炭業では1944年まで年産5300万トンの水準だったが、中国人・朝鮮人を強制的に働かせて生産を維持していた。終戦後、強制労働が解除されると年産1000万トンを下回るまで激減し極端な石炭不足に陥った。そこで1947-1948年に基幹産業の発展を最優先する「傾斜生産方式」が実施された。

まず復興金融公庫(復金)が大量の国債(復興債)を発行し、それを日銀が引き受けることにより資金を獲得、それを石炭・電力・海運を中心に基幹産業に重点的に投入した。一般金融機関の資金供給力が低下する中、復興金融金庫による融資の割合は大きく、設備資金では1949年3月末現在の融資残高の74%は復興金庫融資で占められていた。お金を刷って復興資金にしたわけだが、これが生産回復に大きな役割を果たした変面、復金インフレと呼ばれたように、インフレを加速する結果となった。

この財政・金融政策をどのように評価すべきだろうか。もし、このような政策が行われなかったら、政府は財政難で生産力を回復させる強力な政策は出せなかっただろうし、石炭・電力・鉄鋼の生産不足が続いていただろうから、物不足つまり需要が供給を大幅に上回る状況が続きインフレは長期化しただろう。そして奇跡の経済復興はあり得なかっただろう。戦後の混乱期のような非常事態においては、通貨発行権を行使し政府に十分な資金を確保し、それによって基盤産業を緊急に育てるという政策は正しい。国民に対しては、激しいインフレに耐えてくれと、つまり暫くは痛みに耐えて日本経済を復興させようと協力を求めたわけだ。

もし、通貨発行をせず、歳出削減という緊縮財政政策を行っていたら、景気悪化でしかも物不足のインフレが続くスタグフレーションとなっただろうし、物不足がいつまでも続く絶望的な経済状態となっただろう。実際には生産力が回復してきた頃の1949年2月に来日したドッジは、「ドッジ・ライン」と呼ばれた一連の経済安定化策(超緊縮財政)を実施した。消費者物価は1948年には193%の上昇だったものが、1949年には62.7%にまで下落、1950年には-1.8%とデフレーションの様相を呈した。このことはインフレというものは、完全に制御可能である事を意味している。

その後、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争のお陰で特需が生まれ、それをきっかけに日本経済の奇跡的な復興が始まっていく。このような奇跡を起こせたのも通貨発行権という、絶大な特権を最大限に利用した結果である。国民はたしかに激しいインフレに耐えなければならなかったし、配給によって与えられる最低限の物資に頼って生きていくしかなかった。しかし、みるみる復興していく日本経済に希望を持てただろうし、しかも大量の国債発行にも拘わらず、インフレにより国の借金のGDP比は全く増えなかったから、将来世代へのツケを心配する必要もなかった。希望の光が見えていたことを考えれば現在の日本人より余程幸せだったのではないか。

筆者の提案は、あの頃を見習って第二の奇跡の経済復興を目指すことである。日本経済が活力を取り戻し、将来へのツケを消し、奇跡の経済復興が再開するのであれば、インフレを我々は我慢すべきではないだろうか。小泉流に言えば、「痛みに耐えよ」である。どの位のインフレに耐えなければならないかと言えば、すでに日経のモデルによる予測を示した。

http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-bd0c.html

 50兆円規模の景気対策を数年続けるのであれば、2~3%のインフレ率だ。そうではなくて、その10倍の500兆円の景気対策を数年続けるとかなり激しいインフレになるだろうし、将来世代へのツケは一瞬で消えてしまうが、そんな規模にしなければならない理由は全くない。2~3%のインフレ率は、どの国の国民でも我慢にして受け入れているのであり、我々も受け入れるべきだ。

 一部の識者は、この提案に対して「制御不能のハイパーインフレになったらどうするのか」と反論する。しかし、ドッジ・ラインの経験から我々は知っている。インフレを抑えるには、財政支出を削ればよいだけだ。もちろん増税、金利引き上げ、預金準備率引き上げ、売りオペ等、インフレを抑える手段はいくらでもある。しかも終戦直後が物不足だったのに対して今は物余りの時代だ。需要が供給を下回る状態を作り出すことは財政金融政策で簡単にできる。

 国の債務のGDP比を「将来世代へのツケ」と呼ぶなら、デフレを我慢しているとツケは増えていくが、インフレを我慢しているとツケはどんどん減っていく。どうせ我慢しなければならないのであれば、インフレを我慢したほうがよいではないか。高度成長期も我々は常にインフレを我慢してきた。その間、常に賃金の上昇率はインフレ率を上回り、暮らしはどんどん改善された。

約60年ぶりに通貨発行権を行使することは政治家にとって勇気がいるかもしれない。しかし、それによりデフレを脱却し、将来世代へのツケを減らし、豊かな経済を次の世代に残してやれるのなら我慢できるだろう。政治家に決断と実行を期待したい。

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コメント

需要が供給を大きく上回った戦後直後は、高インフレになって当たり前。
膨大な需要に応えるために、供給を増やそうとするのが当たり前。
供給を増やすための供給設備を作るために 必要なお金を工面すべきなのも当たり前。
借金してでも工面すべき。 お金を貸してあげる人もいなければならない。

戦後直後、
借金してでも支出しようとしたのが復興金融公庫、お金を貸したのが日銀、
ということですね。

極めてマトモな施策です。

現在も、マトモな施策が求められていますね。

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 00時19分

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