AIに善悪の判断を教える方法(No.305)
(1)AIに何を期待するか
最近自動運転車の話題が多くなった。人間は時々間違いを冒す。脇見運転、酔っ払い運転、アクセルとブレーキの踏み間違い、安全不確認等があり、無免許運転もある。このような人為的ミスは事故のうちの9割を占めており、自動運転車なら事故は10分の1に減ると言われている。国の経済政策も間違いだらけだ。日本はバブルの前には奇跡的な経済復興と言われていて「ジャパンアズナンバーワン」つまり日本が世界一になるとまで言われていたが、政府・日銀が徹底的なバブル潰しを行った結果経済成長率が世界最低にまで落ちてしまった。これも景気へのブレーキとアクセルの踏み間違いにすぎない。経済政策をAIに任せることが出来ていたら高成長が続いていたと考えられ大変残念である。しかし、世界一の低成長がこのまま続いてしまうのは悲惨であり、せめて普通の国並の成長率にするにはどうすればよいのか、AIに何を教えれば良いのかを検討することにする。
(2)善悪の基準と進化
AIが発達してくると、やがてAIに善悪の判断の基準を教えてやらなければならない時代が来る。それは個人によっても、国によっても変わるし、時代が変わると変化してくる。しかし、進化論から出発するなら、善悪の判断を明確にできる。ここではこの事を説明する。最近鄭雄一氏が『東大教授が挑む AIに「善悪の判断」を教える方法』を出版した。彼は古今東西の倫理・道徳から「人間の善悪」の基準を導き出そうとしている。しかしながら、AIが人間の仕事を奪う時代の倫理・道徳は古い時代のものとは全く異なるのであり、鄭雄一氏の試みは不完全なものに終わるであろう。進化論に基づいた理論でAIに善悪の基準を教える方法は小野盛司(1999)、小野盛司(2005)で示されている。
人間はサルから進化した動物である。人間の体のあらゆる部分や人間の行動は、人間が子孫を残し人類が生き延びるために都合がよいようにできている。非常に長い時間をかけ自然淘汰により『改良』が重ねられてきた。手足、脳、心臓、肺、胃、腸、生殖器などあらゆる部分は子孫を残すのに都合のよいようにできている。ただし自己保存も子孫を残すためと考える。生き延びるためのほんの少しの違いが決定的な違いになる。例えばネアンデルタールは喉の奥が短いため、文節言語を発声する能力が低くコミュニケーションがうまくできなかったためにヒトのように生き延びられなかったといわれている。
人間の行動も「子孫を残すために」最適化されている。進化の結果そのような動物だけが選ばれて生き残ったわけである。かつて動物は種の保存のために行動すると考えられていたが、それに反する事例が次々見つかった。進化は、特定の行動を引き起こす遺伝子が増える事によって引き起こされる。自分の遺伝子をできるだけ多く残すように行動した結果特定の遺伝子を持つ個体が増加するする。つまり人間の行動は「自分の遺伝子を残すために」最適化されているのだが、その結果「人間は子孫を残すために行動している」あるいは「人間の生きる目的は子孫を残すため」と言っても差し支えない。子孫を残すということと種の保存は意味としてかなり近い。人間の行動は快不快、幸不幸により支配されている。つまり子孫の残すために好都合な行動は快感であり、幸福を感じ頻繁に引き起こされ、不都合な場合は不快であり、不幸と感じ避けようとする。
この事を次のように表現しよう。人間の行動を支配しているのはディスクリミネータという判定機であり、子孫を残すために良いならプラスとなり、悪いならマイナスになる。快感、美しい、美味しい、幸福という状態はプラス、醜い、まずい、不快、苦痛、不幸の状態はマイナスであり、将来的に善悪の定量的分析が可能になる。
我々が気付かないうちに、我々はこのディスクリミネータに思想も行動も完全に支配されている。例えば「動物を人間の食料にする」ということは、全く自然に受け入れられ日常普通に行われていることである。それではその逆はどうだろう。つまり
「人肉を動物の餌にする」
ということになる。もちろんあなたはそのような考えを持ったことがないだろう。またそんな考えを持った人の話は聞いたことがない。数学者であれば、どの命題であってもその逆を自由に考えることができる。しかしどんなに自由に思想を展開できると思っている人でもこんなぶっそうな思想を持つことはできない。「人肉を動物の餌にしよう」という考えはどんな凶悪な殺人犯の心の片隅にすら思いつかないことである。このことから、いかにディスクリミネータによる思想統制が強烈であるかが分かる。
「なぜ人を殺してはいけないか」は子孫を残すため、あるいは種の保存を考えれば当然だ。「戦争ではなぜ人を殺してもよいのか」という問いに対しては、太古の時代人間は縄張りを持って数十人単位のムラで暮らしていた。食糧難になったとき、隣のムラから食糧を取って来なければ生き延びられなかった。この時はムラ人が協力して隣のムラと戦うしか無く、隣のムラの人を殺すことは善ということとなった。このような戦いを繰り返すことにより、人間は協調性を獲得した。ネアンデルタールとの戦いでコミュニケーション能力のすぐれたホモサピエンスが勝ったとも考えられ、仲間のための行動が進化したと考えられる。ただし核兵器が開発されて以降、核戦争には勝者はいないことを人類は知った。それ故に、戦争は絶対悪となった。ただし通常兵器による小規模な戦争は無くなっていない。
(3)人間の思想と行動を支配するディスクリミネータ
人間の行動はすべてがディスクリミネータによって支配されており、ディスクリミネータは子孫保存・種の保存という意味で合目的に作られているということは、筆者は『人間の行動と進化論』という本の中で詳しく述べたので、ここではそのごく一部のみを紹介しよう。
では芸術は、子孫保存・種の保存とどのように関係しているのだろう。芸術作品の代表的なものを見てみよう。ミロのヴィーナスはどうであろう。これは裸体の女性であり性欲を引き起こすものだから、生殖のための行動を誘発するもの(ディスクリミネータ)があってそれが女体を見たときに美しいという信号を脳に送る。
さてミロのヴィーナスを見て美しいを感じる事に話しを戻そう。ディスクリミネータがプラスになったことと、子孫保存・種の保存との関係は明らかだ。実際絵画、彫刻に女性の裸体は非常に多いことは、女性が男性を引き付けることが極めて子孫を残すに重要であることに対応している。映画、音楽、彫刻、絵画など一般に何らかで子孫保存・種の保存と関連はしていると思われるが、直接に子孫保存・種の保存に役立っているわけでなく、むしろ人為的にディスクリミネータをプラスにしているわけであり、それが目的化している。
ディスクリミネータの目的化は悪いことと思ってはならない。人は子孫保存・種の保存とは無関係にディスクリミネータをプラスにする方法を多数発見した。言い換えると「ディスクリミネータを人為的にプラスにする」方法である。これをディスクリミネータの空作動(カラサドウ)と呼ぼう。
ディスクリミネータの作動状態は次の四つに分類できる。
1.正常作動・・・子孫保存・種の保存にとって益になるときがプラス、害になるときがマイナ
スという本来のディスクリミネータに従った作動をする状態
2.空作動 ・・・子孫保存・種の保存には益にも害にもならないが、人為的な方法等によりデ
ィスクリミネータをプラスにする状態
3.作動抑止・・・子孫保存・種の保存にとって害にならないのにマイナスになっている場合、
それを人為的な方法で消す状態
4.異常作動・・・子孫保存・種の保存にとっては害になるのにディスクリミネータがプラスに
なるとき、または種の保存に益になっているのにディスクリミネータがマイ
ナスになる状態
本物の女性を見て美しいと感じるのは正常作動、ミロのヴィーナスを見て美しいと感じるのが空作動である。歯医者で治療を受けているとき痛みを感じる。歯の治療は子孫保存(自己保存)に益になる。しかしそれでもディスクリミネータはマイナスになるから異常作動。これに対し、心理療法とか麻酔で痛みを和らげたり、止めたりするのが作動抑止である。自殺しそうな人やひどく落ち込んだ人を励ますのも作動抑止である。宗教活動にはこういった事がよく行われている。カウンセリングも作動抑止である。
ドーキンスなど、進化生物学者は全ての生物は『自分の遺伝子を残すために行動』するのであって、『種の保存』のためではないと主張する。ドーキンスなどの生物学者は、生物は種の保存のための行動など行うことはないとまで言い、一般の人の混乱と誤解を招く。これが進化論にとっての革命とでも言いたいのだろうが、実際は『自分の遺伝子を残すために行動』(これは自分の子孫を残すということだ)と『種の保存』ということは、かなり近い意味になっていて、一般の人で、どこが違うのかを言うことができる人は少ないだろう。ドーキンスは利他行動は進化しないと言っているが、実際は進化するということが、筆者を含む三人の研究者により示された(小野、三沢、辻(2003))。ドーキンス達は、利他行動とは自分の遺伝子を残すためには害になるが、他人が遺伝子を残すためには益になるというものと定義している。このように定義しても、利他行動の進化は可能というのが筆者達が示したことだが、実際は、利他行動(協力行動)のほとんどは、自分の子供を育てるには害にならないが、他人には益になるような行動だ。ドーキンスの定義する利他行動とは、自分が子孫を残すのが不可能にしてまで(例えば自分が死んでまでして)、他人に利益を与える行動だ。確かに、そんな行動を取る人は滅多にいないし、本能的に人間がそのような行動を取るとは思えない。だからと言って、人間は種の保存の行動を取ることはないと言うのは言い過ぎだ。
(4)ディスクリミネータの解放
我々の社会はゆとりがでてくるにつれ、できるだけ多くの人のディスクリミネータのプラスが大きくなるように、そしてマイナスを避けるように様々な工夫をしている。このように、子孫保存・種の保存を達成しながらディスクリミネータを上昇させるよう社会を変えることを「ディスクリミネータの解放」と呼ぼう。
誰も現代の社会がどちらの方向に向かって変化しているか気が付いていない。人類は数百万年もの間、ぎりぎりで子孫保存・種の保存が達成できる状態だった。こういう時代には、苦痛に耐える(ディスクリミネータが強くマイナスになるような)行動も敢えて取らざるを得なくなるのだ。例えば人口が増えすぎたり、干ばつ等で食糧が不足したときなど、人は口減らし目的で生まれた赤ん坊や働けない老人を殺したりした。
ところが子孫保存・種の保存が容易に達成できるようになり、物があふれゆとりがでてきた現代においては、ディスクリミネータがマイナスになるような行動は徹底して排除し、できるだけディスクリミネータを上げるように工夫し始めたのだ。要するに快を求め不快を避けるということだ。これがディスクリミネータの解放であり、それに合わせて法律を制定し、犯罪や善悪を定義し、道徳・倫理を定めた。どのように行動を取るべしと法律等を定めるとき、実は無意識のうちにディスクリミネータ解放の方針で行われていることがほとんどである。逆に言えば、今後新しい法律を考えるとき、そしてAIに善悪を教えるときはディスクリミネータの解放の意味を充分理解しておくべきである。
ディスクリミネータの解放の例
○[プラスにする](空作動が多く混じっている)
奴隷解放
人種差別撤廃
男女平等
身分制度撤廃
社会福祉の充実
労働時間が短縮され娯楽に使う時間が増える。
強制された労働でなく自分に適し楽しめる労働をするようになる。
レジャー施設の充実
旅行の増加
趣味が多様化し各自自分に合った楽しみ方をする。
性の解放
女性解放
風俗産業等の性欲を利用したレジャーが盛んになる。
食を楽しむ。
○[マイナスを防ぐ](作動抑止)
医学の発達により病気や手術の痛みを和らげ、苦しまなくても済むようになる。
法律を定め犯罪を防ぐ
セクハラ防止
公害問題の改善
戦後制定された労働三法は、労働者の権利を拡大し労働者の苦しみを和らげる働きをする。
戦後制定された憲法も基本的人権を認め、個人の苦しみを和らげる働きをしている。
離婚の増加(結婚生活による行動の制限の解除)
カウンセリングが盛んになる
現代のようにゆとりのある社会では、人間全体が利他的でなればなるほど、様々な作業の分業化が可能となり子孫保存・種の保存が容易に、そして生活が快適(ディスクリミネータがプラス)になる。つまりディスクリミネータの解放のためには、利己を押さえ利他を奨励することが重要である。セクハラの場合のディスクリミネータは男性はプラス、女性はマイナスだ。だんだんゆとりが出てきた社会では、男性の性的快感は風俗で満たせばよいではないかということで、セクハラを禁止する。奴隷制度も奴隷を使わなくても機械化で十分ということになり、奴隷は禁止された。つまり時代の流れはディスクリミネータのマイナスを少しでも無くそうという方向である。
(5)善悪の基準
未来社会はどのような経済システムが良いのかを考えるときは、善悪の基準は何なのかから出発する必要がでてくる。昔、食糧が足りなかった頃の物語では老女を山に捨てに行く。働けなくなった老人を山に捨てなければ子供に充分な食事を与えることができない。だから老女を山に捨てることはよいことということになっていた。働けなくなった老婆を山に運び自殺を助けようとした物語である。老女を山に捨てることが子孫保存・種の保存にとって好都合だから、これが良いこととなっていた。しかしこの物語では最後には老婆を連れ帰る。口減らしが必要な時代から不必要な時代への変遷を描写する内容になっている。食糧がだんだん豊富になってきたのだからもう口減らしで老人を捨てるという習慣は止めようと呼びかけているのである。つまり、食糧が豊富になることにより、老人を山に捨てることが善から悪へと変化する。
例えばシジュウカラは、夜明けから日没まで餌を探し回らなければならず、一日に1000匹以上の虫を、巣に持ち帰らなければヒナを育てることができない。一日のほとんどすべての行動が子孫保存・種の保存のためのものになっている。
人間の未来社会は、それとは対照的に機械化・ロボット化が進み食糧集めの仕事は人間にとってほとんど必要なくなる。そのようなときに人は何をするのか。それが貴族の生活であり、ディスクリミネータの空作動又はディスクリミネータの解放と表現した行動である。もともとディスクリミネータは子孫保存・種の保存のための判定装置のようなものであったのだが、それが目的化し、それを人工的にプラスにするよう、またマイナスになるのを防ぐように行動する。この多くは子孫保存・種の保存とは無関係な行動だが、それが目的化したために、善悪の基準もディスクリミネータのプラスマイナスで決まるようになる。つまり、ディスクリミネータをプラスにすることが善であり、マイナスにすることが悪となる。もちろん、子孫保存・種の保存に益になることは善、害になることは悪であることには変わりはない。しかし、ゆとりの時代においては子孫保存・種の保存には、益にも害にもならないが、ディスクリミネータのプラス、マイナスには関係するという場合は、プラスが善、マイナスが悪となる。つまりこの判定装置をあらゆる方法で人為的にプラスにしようとしているのだ。
例えば未来社会ではスポーツが盛んになるだろうし、そうすべきである。何のためにスポーツをするのか。例えば野球。ボールを投げる。これが快感となるのは太古の時代の人間にとって投石は獲物獲得の一手段だったから。バットを振り回す。これも快感だ。なぜならその頃はこん棒で殴り殺して獲物を獲得することもできた時代であったからだ。それに対し現代は石を投げたりこん棒を振り回しても、直接食糧の確保になるわけでないが、今もその頃の名残りでディスクリミネータがプラスになる。その他殴ったり蹴ったり速く走ったり獲物を取るためには様々な能力が必要になってきて、自分の能力を伸ばしたいといつも思っていただろう。それは直接食料の確保につながり、身を守る武器になったのだから。当然ディスクリミネータもそれらの能力を伸ばすことができればプラスとなる。それに加えて闘争本能も利用している。その空作動を利用したのがスポーツの持つ意味である。他のスポーツでもほぼ同様の意味を持っているし、それを観戦するのも同様である。だから、スポーツを楽しむことはディスクリミネータの空作動を起こさせるという意味で『よいこと』ということになる。もちろん健康によいとか、筋肉を強化すると仕事の効率が上がるという面もあり、正常作動の面もある。
未来社会では生活にゆとりがでてくるから、郊外に出て大きな家を建てる人が多くなる。その大きな家のよく手入れされた庭には池があり澄んだ水が流れ込んでいて、その中に大きなコイが泳いでいる。こんな住居での生活は現在の、ごくありふれた人のひそかな願望であり、現在は豪邸とよばれる家に、未来社会では多くの人が住むことのできるようになる。どうしてこんな庭が欲しいのであろうか。現代、あるいは未来の豊かな時代にはその意味が解らなくなっているのだが、人間は太古の時代、狩猟生活をしていた。古代人は食糧を探して毎日野山を歩き回っていただろう。そのときこの庭のような場所を発見したときの喜びを想像するとよい。澄んだ水は喉の渇きをいやすことができる。大きなコイの発見は貴重な食料の発見なのだ。
しかしこのような解釈にあなたは反論するかもしれない。飲み水は水道水で十分だし、大きな魚も魚屋かスーパーに行けば十分だ。池の水は飲料水ではないし、庭のコイは食べるためではない。あくまで観賞用だと。
もちろんあなたは正しい。これは観賞用だ。しかしこれを見てよい気分になる、つまりディスクリミネータが正になるのは、古代人が狩猟生活を送っていたころの名残りであり、生まれながらにしてそのようなディスクリミネータを我々は持っているのである。その頃、自然選択の原理により子孫保存・種の保存のために作られたディスクリミネータがそのまま残っていて、現代人の生活形態を支配している。すべての人は無意識のうちに、このディスクリミネータに行動を支配されているから、このような庭がある家に住みたがる。無意識と言ったのは、意識の中にこのような場所を探し回っていたという記憶も経験も無いからだ。古代人が獲得したディスクリミネータは済んだ水を持つ池(飲めるから綺麗と感じる)がプラスと反応し、その中で動いている魚(食べられるから綺麗と感じる)もプラスと反応する。これらのものが目に留まると注意して観察するようにディスクリミネータが命ずるようにできている。
子孫保存・種の保存のためだけなら、こんな家に住まなくてもよいかもしれないが、ディスクリミネータをプラスにするという目的なら、こうした家に住むことは良いということになる。このように「贅沢をする」ということは、ディスクリミネータの空作動でありディスクリミネータの解放でもあり良いことだ。
必要な物が豊富に供給されるゆとりの時代においては、人間は利己的な行動を制限もしくは禁止し利他的な行動を取った方が、より子孫保存・種の保存の達成を容易にし、多くの人が快適に住める(ディスクリミネータをプラスにできる)ことを知っている。だから利他的行動は善、利己的行動は悪と定義されることが多い。これは現代に生きる人間の特殊事情による定義であり、決してどんな動物にも当てはまると思ってはならない。すでに述べたように一般に利他的な行動は進化しづらいし、実際多くの動物は人間より利己的である。
(6)AI/ロボットに善悪を教えるには
人間社会において善悪の基準は徐々に変化する。AI/ロボットに何が善で何が悪かを、どうやって教えればよいかが問題になる。しかし、人間の生きる目的が、子孫を残し人類という種を保存することであることは、未来永劫変化しない。ロボットは自分自身を保存するのではなく、あくまで人間を助けるのだと教えればよい。ロボットは、場合によっては、自己を犠牲にしてまで人間を救うことが善であることを理解させる。
もう一つ教えなければならないのは、「ディスクリミネータの解放」の意味だ。現代において、人間は種の保存の達成が余りにも容易に達成されてしまうので、「ディスクリミネータの解放」ということが重視されてきている。人間は快を求め、あるいは幸福になるために(ディスクリミネータをプラスにするために)生きている。これが目的化されるようになってきた。だから、どういう行動に対し、ディスクリミネータがプラスになり、どういう行動に対し、それがマイナスになるかを覚えさせねばならない。それにより、ロボットは様々なシチュエーションで善悪を、正確に判断できるようになる。そのためには、快不快をどのようなときにどのような強度で感じるか、また幸不幸だと思うのはどのようなときで、それはどの程度かについて膨大なアンケート調査を行うべきである。それには無作為抽出された数多くの標本が必要となり、それはビッグデータとして保存し利用されなければならないし、その結果は数値としてクラウドに乗せる必要がある。しかも時代により刻々と変化するわけなので常に調査は続ける必要がある。
ロボットに人間と同じようなディスクリミネータを持たせるというのは、一つのアイディアである。そうすれば、ロボットも人間と同じような「感情」を持つようになり、より親しみが湧いてくる。但し、あくまでロボットは人間に仕える立場にあることは、はっきりしておかねばならない。つまり、ロボットは人間のディスクリミネータの解放を助けるために作られるのである。人間対人間の場合、利害が対立することはある。例えば、自分の家でピアノを練習すれば、隣がうるさいと感じるかもしれない。しかし、ロボットと、その所有者の場合は、利害の対立はありえない。ロボットの所有者は、第三の手を持ったようなものだ。自分の願望を正確に実現してくれるように、ロボットをセットすればよいだけだ。究極には、人間のディスクリミネータを正確に読みとり、それをロボットに記憶させ、主人のディスクリミネータをプラスにするにはどうすればよいのかを分析して行動するようになれば、完璧なロボットになる。
(7)日銀も銀行も財務省もAI/ロボットが代行したら
非常に単純な話だが、インフレ率がインフレ目標を下回ったら積極財政、上回ったら緊縮財政を行うだけで、日本経済はデフレ脱却、景気回復し経済は飛躍的に活性化し失われた20年からの脱却が可能になる。AIを使う必要もなく、小学生でも分かる簡単なことだ。馬鹿な政治家の主張を無視すればよいだけだ。AIを使えば更に高度な政策運営が可能だ。
未来の世界ではAIが人間の快不快、幸不幸に関するデータを経済財政政策に利用することができるようになる。それにより政策の善し悪しが計算できるようになる。国民を豊かに幸福にすることが政府日銀の役割である。貧困は人を不幸にする。格差が拡大し過ぎても貧困世帯を増やす事になり、不幸な人を増やすことになる。格差が全く無くなれば、働いても働かなくても同じなら多くの人は労働意欲を失う。AIならビッグデータを利用しどうすればよいか計算で求めることが出来る。それには経済学者が協力してモデルを作る必要がある。複数のモデルを作らせ、競わせ、どのモデルが最も過去のデータを再現できるかで優劣を決め、最も高い評価を得たモデルをAIに教える。そのうちAIが更に優れたモデルを考案する可能性も出てくる。
人工知能の発達は素晴らしい。チェスや将棋のみならず囲碁でも人間を上回った。一方ではかつて驚異的な経済発展をしてきた日本経済は、馬鹿な政治家の間違った政策により、一気に世界一発展しない国に成り下がってしまった。筆者の提案は政府・日銀を人工知能に置きかえてしまうことである。その方が人間よりはるかに正しい政策を打ち出すから。
世界一豊かな国になりつつあった日本経済を、不況のどん底に落としたのが1990年頃から始まったバブル潰しだ。馬鹿な政治家は、当時高騰を続けていた地価を半分に引き下げれば、国民は2倍の土地を買えるだろうと考えた。しかし、領土の面積は一定なのだから、日本人一人当たりが所有できる面積の平均は37万k㎡を人口で割った面積であって、地価には関係ない。政府は総量規制を行い融資に枠をかけ更に1990年には公定歩合を6%に上げ土地を買いにくくした。カネがなければマイホームは買えないから土地は下がった。マイホームの値段は下がったが、新築住宅着工件数は下がっていったから本来の目的とは逆の結果となった。
バブル潰しのお陰で深刻なデフレ不況に陥り現在に至るまでデフレ脱却はできていない。その間何度も景気対策は打たれているが、いずれも規模が小さすぎデフレ脱却は実現していない。現在の日経平均株価は1989年の38915円よりずっと低い。デフレ脱却できていないのに消費税増税をする。これも馬鹿な話だ。デフレ脱却をしたいなら当然増税でなく減税だ。
もし政府・日銀がAIであったら、地価を半分に下げようなどという暴挙は行うわけがない。バブル崩壊は不良債権を発生させ経済に深刻なダメージを与えるのだから、AIなら崩壊しないよう、ソフトランディングを試みるだろう。不況になりそうなら直ちに金利を下げ、強力な経済対策を行っただろう。経済対策が十分でないと判断されれば、十分景気が回復するまで追加の対策を次々打ち出しただろう。「経済対策は有効でないのかもしれない」などと迷うことはあり得ない。AIは過去の膨大な経済データを記憶しており、どの規模の経済対策がどれだけ効くかを完璧に定量的に理解しているからだ。
AIは「国の借金」とか「財政規律」とか「プライマリーバランス」とかに縛られることなく、どうやって経済を発展させ国民を幸福にするかということに集中する。通貨発行権を有する国だからデフレ脱却にはこの権利を行使すればよいだけだ。なぜ今までこの権利を行使しなかったかと聞くと、「一度行使すると歯止めが掛からなくなるから財政規律を守らなければならないのだ」と答えが帰って来る。しかしそれは人間が財政政策、金融政策を行った場合のことだ。AIが取って代わればそれはあり得ない。AIは必ず国民を最も豊かに、幸福にする方法を選択する。1997年度の日本のGDPは533兆円であったが2017年度はまだ550兆円にすぎない。AIに経済政策を任せていたら3%成長は容易に達することが出来ていたはずで、その場合2017年度のGDPは963兆円に達していただろうし国民の給料もほぼ倍増していただろう。
もちろん、どの国でも通貨発行をすれば金持ちになれるわけではなく、インフレで悩む国であれば、単にインフレ率を更に高めるだけでありメリットはない。しかし長期のデフレに悩まされる日本には通貨発行は値千金なのである。
AIが代行した日銀は国債の購入を更に進め、事実上国の借金は日銀が刷ったお金で返済する。その後必要に応じて国債の日銀引受が行われるようになる。これは人間が行えば歯止めが掛からなくなるという理由で禁止されていたが、AIにはその心配は無用である。景気が過熱したときは、金利を上げることもできるが、増税もすることもできる。景気過熱なら税収が増え財政黒字にさえなることもある。その場合は政府が余った財源で日銀保有の国債を買い戻すこともできる。国債の日銀引受のメリットは間に金融機関を入れることによる中間手数料が必要なくなることである。このとき金融機関の経営は苦しくなるが、フィンテックの進歩により人は現金を使わなくなり、ATMも必要無くなるから、いずれにせよ銀行の役割は大幅に縮小する。融資もAIが代行できるから銀行は行員を大幅削減し、貴重な人材は他の分野に回す事になる。
ディスクリミネータの解放という観点から経済改革を進めるAIは、「貧困からの解放」から始めるだろう。カネ不足の日本に通貨増発によるカネを配るとき、富裕層に配ってもそれほど大きな喜びを与えないが、貧困層に配ると値千金である。物余りの現代でも生活苦の人が多数いる。例えば2017年に生活苦で3464人の人が自殺した。日本国内で本来食べられるのに捨てている「食品ロス」は500万~800万トンもある。生活保護世帯は1995年には60万世帯だったものが、2017年2月現在163万世帯にまで増加し全体の1.69%である。生活保護費は総額3.7兆円であり政府は更にこれを削減しようとしている。1年を通じて勤務し給与が100万円以下の労働者数が400万人を超えた。AIであれば増発された通貨を使い国民を幸福にする最適な方法を提案してくれ困窮する世帯に大きな喜びを与えるだろう。
(8)「通貨増発=悪」という考えが日本の未来を地獄にする
「働かざる者食うべからず」という労働に関する慣用句がある。更にオックスフォード大学と野村総研の研究では10~20年後には日本の約49%の職業はAI/ロボットで代替可能だという。数十年後、大部分の職業がAI/ロボットに取って代わるとすれば人は失職する。ということは人は働かざる者ということになり「人は食うべからず」ということになる。それは地獄の世界だ。しかしAI/ロボットが人間が欲しい物を必要なだけ生産するのであれば、人間に適量のお金が渡されていれば、ほぼ無制限供給の社会が実現し、人間は嫌な労働から解放され、自分がやりたいことを自由にやれることになり、まさに貴族の生活が実現する。そのためには次の2つの事を容認しなければならない。
(1)政府による通貨増発は善とする。
(2)政府が発行した通貨が循環するシステムをつくる。
かつて奇跡的経済復興で世界で最も豊かな国であった日本が、バブルを崩壊させ世界で最も成長しない国へと没落してしまったのは「通貨増発=悪」だと国民が信じてしまったからである。「通貨増発=善」だと国民が思うようになれば、増発された通貨で国の借金を買い取り、増発された通貨で財政を拡大し、デフレから脱却・インフレ目標達成・景気拡大で再び経済成長が始まる。財政拡大で非効率な分野をAI/ロボット化し生産性を向上させ、余った労働者を生産性の高い分野に振り分ける。
ただしこの作業を繰り返すうちに、AI/ロボット化を進める巨大独占企業へとお金が流れ続ける。この巨大企業もAI/ロボット化が進み人を雇わないから巨額なお金は経営者だけに流れ蓄積する。それが余りに巨額であるためその経営者は何にお金を使ったらよいのか分からなくなる。そこでそのお金を国民に流す仕組みを作る必要がある。これはどんな偉大な経済学者も予想しなかった世界であり、小野盛司(2005)にはどのようなシステムが可能かを議論してある。つぎのような可能性がある。
(1)法人税として吸い上げる
(2)国がその会社の多くの株を買い、配当等で吸い上げる
参考文献
(1)小野盛司 「人間の行動と進化論―ドーキンスの利己的遺伝子説の限界とその改良―」ナビ出版(1999)
(2)小野盛司「ロボット ウィズ アス 労働はロボットに人間は貴族に」ナビ出版(2005)
(3)小野、三沢、辻(2003)Ono S, Misawa K, Tsuji K: Effect of group selection on the evolution of altruistic behavior. J Theor Biol; 2003 Jan 7;220(1):55-66 . PMID: 12453450.
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