利己的な遺伝子論とディスクリミネーター論(No. 388)
(1)人間の行動と進化論
かつて生物学者は動物の行動は種の保存という言葉で説明できると言っていた。ところがハヌマンラングールというサルの一種が子殺しを行っているのを観察してからは動物の行動が種の保存では説明できないと主張し始めた。このサルは一夫多妻制の群れを構成していて、クーデターで群を乗っ取った新しいオスが、その時にいた赤ん坊サルを皆殺しにし、メスに自分の子を産ませる。この行為が種の保存では説明できず、自分の遺伝子をできるだけ多く残そうとする利己的な遺伝子論が支持されたとしている。しかし新しいオスは自分の子どもを産ませて育てさせるのであり、種の保存に害になるわけではない。このような子ザルの入れ替えは、強いオスを選んでいるとも言えるわけで種を保存の能力の向上に役立っていると言えなくも無い。
『利己的な遺伝子』という本を書いたリチャード・ドーキンスによれば生物はできるだけ多く自分の遺伝子が残るように行動する。その行動を利己的と表現している。それに対して筆者は、人間は本来種の保存のために行動しているのであり、人間の行動を支配しているのはディスクリミネーターであるとした。
ここでは利己的な遺伝子論とディスクリミネーター論を比較する。人間はサルから進化した動物である。人間の体のあらゆる部分や人間の行動は、人間が子孫を残し人類が生き延びるために(種の保存のために)都合がよいようにできている。非常に長い時間をかけ自然淘汰により『改良』が重ねられてきた。手足、脳、心臓、肺、胃、腸、生殖器などあらゆる部分は子孫を残すのに都合のよいようにできている。ただし自己保存も子孫を残すためと考える。生き延びるためのほんの少しの違いが決定的な違いになる。例えばネアンデルタールは喉の奥が短いため、文節言語を発声する能力が低くコミュニケーションがうまくできなかったためにヒトのように生き延びられなかったといわれている。
人間の行動も「子孫を残すために、あるいは種の保存のために」最適化されている。進化の結果そのような動物だけが選ばれて生き残ったわけである。かつて動物は種の保存のために行動すると言われていたが、それに反する事例が次々見つかった。進化は、特定の行動を引き起こす遺伝子が増える事によって引き起こされる。自分の遺伝子をできるだけ多く残すように行動した結果特定の遺伝子を持つ個体が増加するする。つまり人間の行動は「自分の遺伝子を残すために」最適化されているのだが、その結果「人間は子孫を残すために行動している」あるいは「人間の生きる目的は子孫を残すため」と言っても差し支えない。実は子孫を残すということと種の保存は意味としてかなり近い。人間の行動は快不快、幸不幸により支配されている。つまり子孫の残すために好都合な行動は快感であり、幸福を感じ頻繁に引き起こされ、不都合な場合は不快であり、不幸と感じ避けようとする。
この事を次のように表現しよう。人間の行動を支配しているのはディスクリミネーターという判定機であり、子孫を残すため(種の保存のため)に良いならプラスとなり、悪いならマイナスになる。快感、美しい、美味しい、幸福という状態はプラス、醜い、まずい、不快、苦痛、不幸の状態はマイナスであり、将来的に善悪の定量的分析が可能になる。
我々が気付かないうちに、我々はこのディスクリミネーターに思想も行動も完全に支配されている。例えば「動物を人間の食料にする」ということは、全く自然に受け入れられ日常普通に行われていることである。それではその逆はどうだろう。つまり
「人間を動物の食料にする」
ということになる。もちろんあなたはそのような考えを持ったことがないだろう。またそんな考えを持った人の話は聞いたことがない。数学者であれば、どの命題であってもその逆を自由に考えることができる。しかしどんなに自由に思想を展開できると思っている人でもこんなぶっそうな思想を持つことはできない。「人間を動物の食料にしよう」という考えはどんな凶悪な殺人犯の心の片隅にすら思いつかないことである。このことから、いかにディスクリミネーターによる思想統制が強烈であるかが分かる。もちろんライオンであれば人間をライオンの食糧にしようと思っていたとしても不思議ではない。
「なぜ人を殺してはいけないか」は種の保存を考えれば当然だ。「戦争ではなぜ人を殺してもよいのか」という問いに対しては、太古の時代人間は縄張りを持って数十人単位のムラで暮らしていた。食糧難になったとき、隣のムラから食糧を取って来なければ生き延びられなかった。この時はムラ人が協力して隣のムラと戦うしか無く、隣のムラの人を殺すことは善ということとなった。このような戦いを繰り返すことにより、人間は協調性を獲得した。ネアンデルタールとの戦いでコミュニケーション能力のすぐれたホモサピエンスが勝ったとも考えられ、仲間のための行動が進化したと考えられる。ただし核兵器が開発されて以降、核戦争には勝者はいないことを人類は知った。それ故に、戦争は絶対悪となった。ただし通常兵器による小規模な戦争は無くなっていない。
(2)人間の思想と行動を支配するディスクリミネーター
人間の行動はすべてがディスクリミネーターによって支配されており、ディスクリミネーターは種の保存という意味で合目的に作られているということは、筆者は『小野盛司 「人間の行動と進化論―ドーキンスの利己的遺伝子説の限界とその改良―」ナビ出版(1999)』という本の中で詳しく述べたので、ここではそのごく一部のみを紹介しよう。
では芸術は種の保存とどのように関係しているのだろう。芸術作品の代表的なものを見てみよう。ミロのヴィーナスはどうであろう。これは裸体の女性であり性欲を引き起こすものだから、生殖のための行動を誘発するもの(ディスクリミネーター)があってそれが女体を見たときに美しいという信号を脳に送る。
さてミロのヴィーナスを見て美しいを感じる事に話しを戻そう。ディスクリミネーターがプラスになったことと、種の保存との関係は明らかだ。実際絵画、彫刻に女性の裸体は非常に多いことは、女性が男性を引き付けることが極めて子孫を残すに重要であることに対応している。映画、音楽、彫刻、絵画など一般に何らかで種の保存と関連はしていると思われるが、直接に種の保存に役立っているわけでなく、むしろ人為的にディスクリミネーターをプラスにしているわけであり、それが目的化している。
ディスクリミネーターの目的化は悪いことと思ってはならない。人は種の保存とは無関係にディスクリミネーターをプラスにする方法を多数発見した。言い換えると「ディスクリミネーターを人為的にプラスにする」方法である。これをディスクリミネーターの空作動(カラサドウ)と呼ぼう。
ディスクリミネーターの作動状態は次の四つに分類できる。
1.正常作動・・・種の保存にとって益になるときがプラス、害になるときがマイナ
スという本来のディスクリミネーターに従った作動をする状態
2.空作動 ・・・種の保存には益にも害にもならないが、人為的な方法等によりデ
ィスクリミネータをプラスにする状態
3.作動抑止・・・種の保存にとって害にならないのにマイナスになっている場合、
それを人為的な方法で消す状態
4.異常作動・・・種の保存にとっては害になるのにディスクリミネーターがプラスになるとき、または種の保存に益になっているのにディスクリミネーターがマイナスになる状態
本物の女性を見て美しいと感じるのは正常作動、ミロのヴィーナスを見て美しいと感じるのが空作動である。歯医者で治療を受けているとき痛みを感じる。歯の治療は種の保存(自己保存)に益になる。しかしそれでもディスクリミネーターはマイナスになるから異常作動。これに対し、心理療法とか麻酔で痛みを和らげたり、止めたりするのが作動抑止である。自殺しそうな人やひどく落ち込んだ人を励ますのも作動抑止である。宗教活動にはこういった事がよく行われている。カウンセリングも作動抑止である。
ドーキンスなど、進化生物学者は全ての生物は『自分の遺伝子を残すために行動』するのであって、『種の保存』のためではないと主張する。ドーキンスなどは、生物は種の保存のための行動など行うことはないとまで言い、一般の人の混乱と誤解を招く。これが進化論にとっての革命とでも言いたいのだろうが、実際は『自分の遺伝子を残すために行動』(これは自分の子孫を残すということだ)と『種の保存』ということは、かなり近い意味になっていて、一般の人で、どこが違うのかを言うことができる人は少ないだろう。ドーキンスは利他行動は進化しないと言っているが、実際は進化するということが、筆者を含む三人の研究者により示された(小野、三沢、辻(2003)Ono S, Misawa K, Tsuji K: Effect of group selection on the evolution of altruistic behavior. J Theor Biol; 2003 Jan 7;220(1):55-66 . PMID: 12453450.)。ドーキンス達は、利他行動とは自分の遺伝子を残すためには害になるが、他人が遺伝子を残すためには益になるというものと定義している。このように定義しても、利他行動の進化は可能というのが筆者達が示したことだが、実際は、利他行動(協力行動)のほとんどは、自分の子供を育てるには害にならないが、他人には益になるような行動だ。ドーキンスの定義する利他行動とは、自分が子孫を残すのが不可能にしてまで(例えば自分が死んでまでして)、他人に利益を与える行動だ。確かに、そんな行動を取る人は滅多にいないし、本能的に人間がそのような行動を取るとは思えない。だからと言って、人間は種の保存の行動を取ることはないと言うのは言い過ぎだ。
(3)マルチレベル選択 ・・・ 進化のしくみ
生物の進化に関して簡単に説明してみよう。自分の遺伝子を多く持つ子どもをたくさん産み育てる個体を利己的な個体と言い、自分の遺伝子を多く持たない子どもを育てるのに協力する個体を利他的な個体と言うことにする。
(a)個体レベルの選択
モデル1
Aという性質の個体とSという性質の個体が共存する世界を考える。
A:利他的な個体:他人の子育てを助ける
S:利己的な個体:他人より多くの子どもを産み育てる
このような仮定でシミュレーションを行うと、Sが増え続けAの割合が減る。つまりこのモデルでは利他行動は進化しない。この場合は人は争って自分の子どもを増やそうとするようになるはずである。しかし実際は日本は少子化でありたくさん子どもを産みたいと思っている人は少ない。
その意味で利己的な遺伝子論の失敗例と言える。
ここで疑問になるのは子どもを一人でも多く産み育てることが自分の遺伝子を多く残す事になるかということだ。例えばライオンなど、増えすぎてエサとなる草食動物を食い尽くしたら、生きていけない。つまりこの場合子どもを多く産みすぎないことが自分の遺伝子を残すための必須条件となる。子どもを産みすぎないことこそが利己的な遺伝子の条件だ。結局子どもを産みすぎないことは仲間を守るため、種を守るためということであり。それは種の保存のためということになる。つまり利己的な遺伝子は種の保存が大前提となっている。種の保存がなされなければ自分の遺伝子は残せない。
なぜ進化生物学者は「種の保存」という言葉が大嫌いなのだろうか。昔、生物学者は「動物はすべて種の保存のための行動をしている」と説明していた。これを彼らは「古い生物学」と呼ぶ。新しい生物学は遺伝子をベースにしていて、シミュレーションをするとき「種の保存」を選択のレベルにすることは複雑すぎて不可能であるからだ。
(b)群淘汰
モデル2 ・・・ 群のレベルの選択(利他行動が進化しないとき)
人が小さな群(部落)に別れて暮らしているとする。
A:利他的な個体:他人と同じくらい子どもを産み育てる、その群れの増加を助ける仕事もする。
S:利己的な個体:他人より多くの子どもを産み育てる。
このような仮定でシミュレーションを行うと、Aが多くいる群れが増えるが、群れの中ではSが増え続ける。群が混じり合ったり、突然変異が起きたりすると最終的にはSばかりになるのでAがいなくなり利他行動は進化しない
モデル3 ・・・ 群のレベルの選択(利他行動が進化するとき)
A:利他的な個体:他人と同じくらい子どもを産み育てる、その群れの増加を助ける仕事もする。
S:利己的な個体:他と同じくらい子どもを産み育てる。その群の増加を助けない。
このような仮定でシミュレーションを行うと、Aが多くいる群れが増えるので結果としてAが増えていく。群が混じり合っても同じ。Sが増える理由はない。
だから利他行動は進化する。群のレベルで選択が起こっておりこれを群淘汰という。
利他行動の獲得は郡淘汰だけではない。知能が発達した人間は協力行動が種の保存にプラスにはたらく事を知る。例えば農業を考えても、多くの人がたくさんの工夫をし、農機具を発明し生産を増やしていった。遺伝子の変化を待たなくても技術を言葉で伝えることができ、種の保存をより確実にできるようにした。農業以外のたくさんの分野でも同様である。
倫理・道徳・法律など、種の保存を容易にし、ディスクリミネーターをよりプラスにするために作られた。
(c)種のレベルの選択
種の保存の能力が高ければ生き残れる。
サルから分化した人類の祖先の数は20種にもなった。その中で生き残ったのはホモサピエンスだけであるが、その理由の一つは肉食だったために脳が巨大化し知能が高かったこと。ネアンデルタールも同様に脳は巨大化していたが、喉の構造上ホモサピエンスのように会話能力が優れていなかったから生き残れなかった。つまり種の保存の能力が優れているもののみが生き残れる。これは利己的な遺伝子説では説明できない。
利己的な遺伝子説では個体レベルの選択だけだとし、群レベルや種レベルの選択は存在しないと主張している。しかし20の種から1つの種に選ばれたのは個体レベルの選択ではなく種レベルの選択である。だから「種の保存」のための行動を動物が行っていると表現しても間違いではない。
(4)ディスクリミネーターの解放
我々の社会はゆとりがでてくるにつれ、できるだけ多くの人のディスクリミネーターのプラスが大きくなるように、そしてマイナスを避けるように様々な工夫をしている。このように、種の保存を達成しながらディスクリミネーターを上昇させるよう社会を変えることを「ディスクリミネーターの解放」と呼ぼう。
誰も現代の社会がどちらの方向に向かって変化しているか気が付いていない。人類は数百万年もの間、ぎりぎりで種の保存が達成できる状態だった。こういう時代には、苦痛に耐える(ディスクリミネーターが強くマイナスになるような)行動も敢えて取らざるを得なくなるのだ。例えば人口が増えすぎたり、干ばつ等で食糧が不足したときなど、人は口減らし目的で生まれた赤ん坊や働けない老人を殺したりした。
ところが種の保存が容易に達成できるようになり、物があふれゆとりがでてきた現代においては、ディスクリミネーターがマイナスになるような行動は徹底して排除し、できるだけディスクリミネーターを上げるように工夫し始めたのだ。要するに快を求め不快を避けるということだ。これがディスクリミネーターの解放であり、それに合わせて法律を制定し、犯罪や善悪を定義し、道徳・倫理を定めた。どのように行動を取るべしと法律等を定めるとき、実は無意識のうちにディスクリミネーター解放の方針で行われていることがほとんどである。逆に言えば、今後新しい法律を考えるとき、そしてAIに善悪を教えるときはディスクリミネーターの解放の意味を充分理解しておくべきである。
ディスクリミネーターの解放の例
○[プラスにする](空作動が多く混じっている)
奴隷解放
人種差別撤廃
男女平等
身分制度撤廃
社会福祉の充実
労働時間が短縮され娯楽に使う時間が増える。
強制された労働でなく自分に適し楽しめる労働をするようになる。
レジャー施設の充実
旅行の増加
趣味が多様化し各自自分に合った楽しみ方をする。
性の解放
女性解放
風俗産業等の性欲を利用したレジャーが盛んになる。
食を楽しむ。
○[マイナスを防ぐ](作動抑止)
医学の発達により病気や手術の痛みを和らげ、苦しまなくても済むようになる。
法律を定め犯罪を防ぐ
セクハラ防止
公害問題の改善
戦後制定された労働三法は、労働者の権利を拡大し労働者の苦しみを和らげる働きをする。
戦後制定された憲法も基本的人権を認め、個人の苦しみを和らげる働きをしている。
離婚の増加(結婚生活による行動の制限の解除)
カウンセリングが盛んになる
現代のようにゆとりのある社会では、人間全体が利他的でなればなるほど、様々な作業の分業化が可能となり子孫保存・種の保存が容易に、そして生活が快適(ディスクリミネーターがプラス)になる。つまりディスクリミネーターの解放のためには、利己を押さえ利他を奨励することが重要である。セクハラの場合のディスクリミネーターは男性はプラス、女性はマイナスだ。だんだんゆとりが出てきた社会では、男性の性的快感は風俗で満たせばよいではないかということで、セクハラを禁止する。奴隷制度も奴隷を使わなくても機械化で十分ということになり、奴隷は禁止された。つまり時代の流れはディスクリミネーターのマイナスを少しでも無くそうという方向である。
このようにディスクリミネーター論では人間の進む方法を明確に示すことができる。それに反し利己的な遺伝子論はこのことに関しては全く無力である。
(5)善悪の基準
未来社会はどのような経済システムが良いのかを考えるときは、善悪の基準は何なのかから出発する必要がでてくる。昔、食糧が足りなかった頃の物語では老女を山に捨てに行く。働けなくなった老人を山に捨てなければ子供に充分な食事を与えることができない。だから老女を山に捨てることはよいことということになっていた。働けなくなった老婆を山に運び自殺を助けようとした物語である。老女を山に捨てることが種の保存にとって好都合だから、これが良いこととなっていた。しかしこの物語では最後には老婆を連れ帰る。口減らしが必要な時代から不必要な時代への変遷を描写する内容になっている。食糧がだんだん豊富になってきたのだからもう口減らしで老人を捨てるという習慣は止めようと呼びかけているのである。つまり、食糧が豊富になることにより、老人を山に捨てることが善から悪へと変化する。
例えばシジュウカラは、夜明けから日没まで餌を探し回らなければならず、一日に1000匹以上の虫を、巣に持ち帰らなければヒナを育てることができない。一日のほとんどすべての行動が種の保存のためのものになっている。
人間の未来社会は、それとは対照的に機械化・ロボット化が進み食糧集めの仕事は人間にとってほとんど必要なくなる。そのようなときに人は何をするのか。それが貴族の生活であり、ディスクリミネーターの空作動又はディスクリミネーターの解放と表現した行動である。もともとディスクリミネーターは種の保存のための判定装置のようなものであったのだが、それが目的化し、それを人工的にプラスにするよう、またマイナスになるのを防ぐように行動する。この多くは種の保存とは無関係な行動だが、それが目的化したために、善悪の基準もディスクリミネーターのプラスマイナスで決まるようになる。つまり、ディスクリミネーターをプラスにすることが善であり、マイナスにすることが悪となる。もちろん、種の保存に益になることは善、害になることは悪であることには変わりはない。しかし、ゆとりの時代においては種の保存には、益にも害にもならないが、ディスクリミネーターのプラス、マイナスには関係するという場合は、プラスが善、マイナスが悪となる。つまりこの判定装置をあらゆる方法で人為的にプラスにしようとしているのだ。
例えば未来社会ではスポーツが盛んになるだろうし、そうすべきである。何のためにスポーツをするのか。例えば野球。ボールを投げる。これが快感となるのは太古の時代の人間にとって投石は獲物獲得の一手段だったから。バットを振り回す。これも快感だ。なぜならその頃はこん棒で殴り殺して獲物を獲得することもできた時代であったからだ。それに対し現代は石を投げたりこん棒を振り回したりしても、直接食糧の確保になるわけでないが、今もその頃の名残りでディスクリミネーターがプラスになる。その他殴ったり蹴ったり速く走ったり獲物を取るためには様々な能力が必要になってきて、自分の能力を伸ばしたいといつも思っていただろう。それは直接食料の確保につながり、身を守る武器になったのだから。当然ディスクリミネーターもそれらの能力を伸ばすことができればプラスとなる。それに加えて闘争本能も利用している。その空作動を利用したのがスポーツの持つ意味である。他のスポーツでもほぼ同様の意味を持っているし、それを観戦するのも同様である。だから、スポーツを楽しむことはディスクリミネーターの空作動を起こさせるという意味で『よいこと』ということになる。もちろん健康によいとか、筋肉を強化すると仕事の効率が上がるという面もあり、正常作動の面もある。
未来社会では生活にゆとりがでてくるから、郊外に出て大きな家を建てる人が多くなる。その大きな家のよく手入れされた庭には池があり澄んだ水が流れ込んでいて、その中に大きなコイが泳いでいる。こんな住居での生活は現在の、ごくありふれた人のひそかな願望であり、現在は豪邸とよばれる家に、未来社会では多くの人が住むことのできるようになる。どうしてこんな庭が欲しいのであろうか。現代、あるいは未来の豊かな時代にはその意味が解らなくなっているのだが、人間は太古の時代、狩猟生活をしていた。古代人は食糧を探して毎日野山を歩き回っていただろう。そのときこの庭のような場所を発見したときの喜びを想像するとよい。澄んだ水は喉の渇きをいやすことができる。大きなコイの発見は貴重な食料の発見なのだ。
しかしこのような解釈にあなたは反論するかもしれない。飲み水は水道水で十分だし、大きな魚も魚屋かスーパーに行けば十分だ。池の水は飲料水ではないし、庭のコイは食べるためではない。あくまで観賞用だと。
もちろんあなたは正しい。これは観賞用だ。しかしこれを見てよい気分になる、つまりディスクリミネーターが正になるのは、古代人が狩猟生活を送っていたころの名残りであり、生まれながらにしてそのようなディスクリミネーターを我々は持っているのである。その頃、自然選択の原理により種の保存のために作られたディスクリミネーターがそのまま残っていて、現代人の生活形態を支配している。すべての人は無意識のうちに、このディスクリミネーターに行動を支配されているから、このような庭がある家に住みたがる。無意識と言ったのは、意識の中にこのような場所を探し回っていたという記憶も経験も無いからだ。古代人が獲得したディスクリミネーターは済んだ水を持つ池(飲めるから綺麗と感じる)がプラスと反応し、その中で動いている魚(食べられるから綺麗と感じる)もプラスと反応する。これらのものが目に留まると注意して観察するようにディスクリミネーターが命ずるようにできている。
種の保存のためだけなら、こんな家に住まなくてもよいかもしれないが、ディスクリミネーターをプラスにするという目的なら、こうした家に住むことは良いということになる。このように「贅沢をする」ということは、ディスクリミネーターの空作動でありディスクリミネーターの解放でもあり良いことだ。
必要な物が豊富に供給されるゆとりの時代においては、人間は利己的な行動を制限もしくは禁止し利他的な行動を取った方が、より種の保存の達成を容易にし、多くの人が快適に住める(ディスクリミネーターをプラスにできる)ことを知っている。だから利他的行動は善、利己的行動は悪と定義されることが多い。これは現代に生きる人間の特殊事情による定義であり、決してどんな動物にも当てはまると思ってはならない。すでに述べたように一般に利他的な行動は進化しづらいし、実際多くの動物は人間より利己的である。
このようにディスクリミネーター論では善悪の基準を明確に示すことができる。しかし利己的な遺伝子論ではそれができない。