現在の経済情勢は昭和恐慌前夜に似てきた(No.43)
歴史は繰り返すと言われているが、大正と昭和初期に起きたことと、現代とが共通点が多い。歴史をしっかり学んでいたら、バブルとその崩壊による経済の混乱を避けることができたのにという思いが強く感じられる。
バブルと呼ばれる経済情勢は1989年頃以外に大正時代にもあった。そのバブルが崩壊した後、長いデフレの時代があり、その不況の真っ直中に政府は緊縮財政を行って、昭和恐慌に陥ったことは有名である。現在のマスコミの論調や政治家の発言で、デフレの中で緊縮財政をせよとの主張が台頭してきて、昭和恐慌前夜に酷似してきており、危険水域に入ったように思える。
順を追って話しを進めるため、1914年頃の背景から始める。日本はアメリカ、イギリス、イタリア、フランスに並ぶ世界五大国の1つであった。当時の対立する二大政党は緊縮財政の民政党と積極財政の政友会であった。この頃は日本製品に国際的競争力がついておらず、貿易赤字が続き、外国からの借金も積み上がり、利払いさえ危ない状況だった。1913年に高橋是清が大蔵大臣に就任し積極財政を展開し、貿易赤字は拡大したが、大規模な外資導入でなんとか賄っていた。つまりこの頃は外国からの借金が積み上がり、ギリシャのようになろうとしていた。
しかし、それを救ったのは1914~1918年の第一次世界大戦だった。日本は戦場にならず、食料・日用品・軍需品の供給基地となりアジア市場を席巻した。ライバルであったヨーロッパ諸国は戦争で輸出の余裕が無くなり、その代わりに日本製品が進出していった。海運においても運送料の暴騰で巨額の利益を得た。1914年には500万円の貿易赤字だったものが、1915年~1918年の4年間の経常収支黒字累計額は27億円となった。この頃のGNPが47億円であったことから、この額が如何に巨額だったかが分かる。ヨーロッパの戦争により日本は債務国から純債権国になり1919年には正貨保有高は20億円に達した。
注目しておかなければならないのは、金の輸出入である。当時は金本位制にするのか、金本位から離脱するのかで、国の経済の命運を分けていた。金本位制度なら、金が不足すると通貨を十分発行できず、デフレに陥ってしまったし、離脱すると為替が不安定になったからである。1917年金輸出が禁止された。つまり金本位制からの離脱である。貿易赤字で金の流出が続いていた戦前と違い、一気に戦争特需で金保有を増やした時に金輸出の禁止を行ったのは矛盾するように思えるが、アメリカが禁輸出の禁止を行ったのに足並みを揃えての禁止措置だった。
戦争特需で外貨(当時は金)が稼げてよかったと思うかもしれないが、高橋是清による度を超した積極財政でインフレとバブルを発生させてしまった。1919年の消費者物価は1915年の2.37倍になった。次のデータは卸売物価指数である。
米や綿花等はもっと激しく値上がりし、1919年には大戦前に比べ米価は3.6倍、綿花は7倍に暴騰している。なぜこのように物価が上がったのかといえば、戦争特需で海外で稼いだ外貨を円に換えたために、日本国内で出回るお金が増えたことに加え、国債を増発、金利引き下げたことで、更に通貨発行のテンポが早くなったことにある。しかも、その金は米とか綿花等投機の対象になるものに向かい、買いだめして値上がりを待ったため、戦争特需の恩恵を受けなかった庶民には逆に生活が苦しくなっている。1919年には全軍事予算が一般会計の45.8%に上っており、国民生活のためにお金が使われていない。
現在の日本や中国でも外需で金を稼いでいるが、インフレにならないのはなぜだろう。現在の日本の場合、稼いだドルは日本に持ち帰らない。日本国内で投資できるものが無いからだ。米や綿花を買っても値上がりの見込みが無い。土地投機も値下がりが続いていてとても買う気にならない。一方中国では、インフレを防ぐために預金準備率を上げて、お金が銀行から出きにくくしたり、金利を上げてお金を借りにくくしたり、売りオペでお金を吸収したり、近隣諸国に元を準備通貨として保有を義務づけたりしている。
大正時代の日本はそのような努力は全くしていない。それどころか1916年3月には公定歩合の引き下げを行っている。戦争特需で大成功した自信で、限りない発展をする日本をイメージしており、インフレを気にせず積極財政を続けている。軍備を増強して将来の戦争に備えることが念頭にあったのだろう。しかし、海外からの需要の急増に生産が間に合わず、ボタンを糊付けしただけの衣服を輸出したとのエピソードもあるくらいで、粗悪品でも何でも売れた。その反動で1918年11月の休戦により、ヨーロッパの企業が戻ってきて競争に勝てなくなり、海外需要の減少、物価の下落で経済は大きな打撃を受けた。
ところが、翌年の1919年には、再び経済は根拠の無い熱狂的なブームになり、地価、株価、商品相場などが異常な高騰を示した。学校の先生やサラリーマンなど、ありとあらゆる人々が株などの投機に熱中していた。株価が38915円の最高値をつけた1989年にそっくりだ。無謀にも銀行も設備投資に積極的に応じた。次の企業新設及び拡張計画資金のグラフをみれば、その異常さが分かる。
出所:望月和彦『大正デモクラシーの政治経済学』
特需が終わり外需が減少し、設備投資が過剰になっていたのだから、この大正バブルは間もなく終わり、その反動が一気にやってくる。特需でインフレになったのと逆のことがバブル崩壊で起きた。輸出減少で再び貿易赤字となり、輸入を維持するには円を外貨に交換してもらわねばならないのだから、円が市中から消えていきデフレとなった。株、商品相場等も大暴落した。投機に走っていた人、企業が次々自己破産、倒産をし、銀行の取り付け騒ぎが続発し、休業が相次いだ。当時は預金者保護の仕組みが無かったので銀行が危なくなればすぐに取り付け騒ぎとなった。それに対し政府は緊急融資で対応した。この頃の経済をしっかり学習していたら、1989年のバブルとその後のバブル崩壊に伴う不良債権問題の発生は無かったろう。この1920年不況によるダメージは昭和恐慌より大きかったというのが鈴木正俊氏『昭和恐慌に学ぶ』の主張であり、その比較は次の表で分かる。
1920年不況を深刻にしたのは、「退場すべき企業は退場すべき」という考えであり、小泉・竹中路線でもあった。政府の失政によりバブルを発生させ、失政によりバブル崩壊となったのに、企業が潰れるのは企業に責任があると政府が決めつけた。このため、不況を深刻にさせ景気回復を困難にした。実際は政策の失敗のために退場させるべきでなかった企業を多数退場させてしまった。
1904~1905年の日露戦争、1914~1918年の第一次世界大戦、1931年の満州事変と続き、この時代は常に戦争と向き合わざるを得ない状況で、軍事支出が増大しやすかった。少なくとも大正時代には外国からの借金は気になっても、国債残高の増大にはそれほど気になっていなかったように見える。次の図は債務(国債発行残高)のGNP比である。
景気がよく、積極財政を行っていた第一次世界大戦中には債務のGNP比は減少。しかし、デフレが続いた1920年~1930年の間では、債務のGNP比は徐々に増加している。高橋是清の積極財政(大量の国債発行)で経済が立ち直った1931年~1936年になると増加は止まり、減少に転じている。これを見ても、景気が悪ければ国の借金(国債発行残高のGNP比)は増えていき、大量国債発行で景気を回復させれば実質的に借金は減るのだと分かる。
大正バブルで発生した過剰な投資が、その後の日本経済の足を引っ張った。更に悪いことに。1923年には関東大震災が発生し、日本のGNPの約3分の1の45億円の損害を出した。これに関連して発生した負債が金融恐慌の震源地になった。
1927年には台湾銀行の営業停止をきっかけに大規模な取り付け騒ぎが起きた。昭和金融恐慌が発生し、高橋是清蔵相は井上準之助日銀総裁と協力し、3週間の支払猶予措置(モラトリアム)を行った。全国的な金融パニックを収めるために紙幣を増発した。印刷が間に合わず、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。現在は通貨も預金が中心であり、預金が守られている限り同様な金融パニックは起こりそうもない。
10年以上続いた不景気・デフレの最終章で国全体が恐ろしい集団催眠にかかってしまう。デフレの中で「緊縮財政」を肴に盛り上がったのだ。国民は〈お前塩断ち、私茶断ち〉〈うれし解禁とげるまで〉と「緊縮小唄」(西条八十作詞、中山晋平作曲〉を歌って金解禁を歓迎した。1930年は国債発行額を0にするための超緊縮予算となった。公務員給料の引き下げも行われた。
なぜこの不景気の中で緊縮財政を行うのかというと、貿易赤字が続いており、それを改善するということだった。なぜ金解禁(つまり金本位制への復帰)が必要だと考えていたのかというと、諸外国が次々と金本位制に復帰していたことと、それが為替の安定につながり貿易を促進に経済発展に必要だと考えたからである。井上準之助蔵相はIMFに影響を受けていたのだろう。IMFは資金融資の見返りに、経済の緊縮政策を要求する。つまり緊縮財政によって国際収支の均衡を図ろうとする。デフレ下での緊縮財政に加え、1929年に始まった世界大恐慌が事態を更に悪化させ、日本経済は昭和恐慌へと突入していった。
昭和恐慌前夜のこの危険な集団催眠に関しては現在の日本と多くの共通点がある。
①バブル崩壊後デフレが続いている。
②デフレなのに増税・歳出削減の議論が盛んである。
③緊縮政策に国民が理解を示している。
④IMFの影響を政府が受けている。
⑤公務員給与の削減を主張している。
⑥銀行の経営危機は何度も経験した。
⑦国債発行を抑えようとしている。
⑧不況で株価も下がっていた。
⑨円高容認の声も強かった。
⑩借金で歳出を計ってはいけないという論調。
以下に株価の動きを示す。高橋財政によって経済が持ち直す前は、株価は下がっていた。
出所:明治以降本邦主要経済統計 日銀
井上蔵相により、1930年1月に旧平価での金解禁が断行された。旧平価ということは、円高にするということだ。通貨発行を拒否する菅内閣は事実上円高容認ということで、井上蔵相の政策と似ているとも言える。円高にするということは、日本製品のすべてを一斉に値上げすることに相当し、そうでなくても競争力の弱い日本製品が売れるわけがなかった。実際、翌年の1931年には、輸出は解禁前の半分に落ち込んだ。金解禁に反対した高橋亀吉は「財界攪乱罪」で警察に引っ張られた。マスコミは彼を「非国民」扱いにした。マスコミの偏向は現代も変わらない。
金解禁ということで、人々はお金を金に替え始めた。日銀の正貨準備は激減し1931年末に4.7億円と金解禁の前に比べ半減した。金本位制では金保有高が減れば、通貨もそれに比例して減らさなければならず、デフレが加速した。金が出て行く理由は簡単に説明してみよう。平価での金解禁ということは、国が金(ドル)を大安売りするということ。しかも国は金を少ししか持っていない。となると、今貯金を全部下ろして、金(ドル)を買っておけば、間もなく国は大安売りを止める。そうすれば、金(ドル)は値上がりし、そこで金(ドル)を売れば、大もうけができる。実際ドル買いをして儲けたのは住友、三井、三菱などの財閥だった。結局金本位制は2年弱で終わった。
1931年12月、政友会の犬飼内閣が成立し、新しく就任した高橋是清蔵相は金輸出を禁止、金本位制から離脱、そして積極財政による経済の立て直しを計った。それにより、日本は世界で最も早く世界大恐慌から立ち直ることができた。
出所:鈴木正俊
最後に強調したい事は、デフレ経済で歳出削減や増税などの緊縮財政を行うことは、極めて危険であるということだ。多くの国民が消費税増税に賛成しているということは、昭和恐慌前夜と同じような非常に危険な状況に日本が陥っていると言える。
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