経済の歴史

2011年2月 6日 (日)

現在の経済情勢は昭和恐慌前夜に似てきた(No.43)

歴史は繰り返すと言われているが、大正と昭和初期に起きたことと、現代とが共通点が多い。歴史をしっかり学んでいたら、バブルとその崩壊による経済の混乱を避けることができたのにという思いが強く感じられる。

バブルと呼ばれる経済情勢は1989年頃以外に大正時代にもあった。そのバブルが崩壊した後、長いデフレの時代があり、その不況の真っ直中に政府は緊縮財政を行って、昭和恐慌に陥ったことは有名である。現在のマスコミの論調や政治家の発言で、デフレの中で緊縮財政をせよとの主張が台頭してきて、昭和恐慌前夜に酷似してきており、危険水域に入ったように思える。

順を追って話しを進めるため、1914年頃の背景から始める。日本はアメリカ、イギリス、イタリア、フランスに並ぶ世界五大国の1つであった。当時の対立する二大政党は緊縮財政の民政党と積極財政の政友会であった。この頃は日本製品に国際的競争力がついておらず、貿易赤字が続き、外国からの借金も積み上がり、利払いさえ危ない状況だった。1913年に高橋是清が大蔵大臣に就任し積極財政を展開し、貿易赤字は拡大したが、大規模な外資導入でなんとか賄っていた。つまりこの頃は外国からの借金が積み上がり、ギリシャのようになろうとしていた。

しかし、それを救ったのは1914~1918年の第一次世界大戦だった。日本は戦場にならず、食料・日用品・軍需品の供給基地となりアジア市場を席巻した。ライバルであったヨーロッパ諸国は戦争で輸出の余裕が無くなり、その代わりに日本製品が進出していった。海運においても運送料の暴騰で巨額の利益を得た。1914年には500万円の貿易赤字だったものが、1915年~1918年の4年間の経常収支黒字累計額は27億円となった。この頃のGNPが47億円であったことから、この額が如何に巨額だったかが分かる。ヨーロッパの戦争により日本は債務国から純債権国になり1919年には正貨保有高は20億円に達した。

注目しておかなければならないのは、金の輸出入である。当時は金本位制にするのか、金本位から離脱するのかで、国の経済の命運を分けていた。金本位制度なら、金が不足すると通貨を十分発行できず、デフレに陥ってしまったし、離脱すると為替が不安定になったからである。1917年金輸出が禁止された。つまり金本位制からの離脱である。貿易赤字で金の流出が続いていた戦前と違い、一気に戦争特需で金保有を増やした時に金輸出の禁止を行ったのは矛盾するように思えるが、アメリカが禁輸出の禁止を行ったのに足並みを揃えての禁止措置だった。

戦争特需で外貨(当時は金)が稼げてよかったと思うかもしれないが、高橋是清による度を超した積極財政でインフレとバブルを発生させてしまった。1919年の消費者物価は1915年の2.37倍になった。次のデータは卸売物価指数である。

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米や綿花等はもっと激しく値上がりし、1919年には大戦前に比べ米価は3.6倍、綿花は7倍に暴騰している。なぜこのように物価が上がったのかといえば、戦争特需で海外で稼いだ外貨を円に換えたために、日本国内で出回るお金が増えたことに加え、国債を増発、金利引き下げたことで、更に通貨発行のテンポが早くなったことにある。しかも、その金は米とか綿花等投機の対象になるものに向かい、買いだめして値上がりを待ったため、戦争特需の恩恵を受けなかった庶民には逆に生活が苦しくなっている。1919年には全軍事予算が一般会計の45.8%に上っており、国民生活のためにお金が使われていない。

現在の日本や中国でも外需で金を稼いでいるが、インフレにならないのはなぜだろう。現在の日本の場合、稼いだドルは日本に持ち帰らない。日本国内で投資できるものが無いからだ。米や綿花を買っても値上がりの見込みが無い。土地投機も値下がりが続いていてとても買う気にならない。一方中国では、インフレを防ぐために預金準備率を上げて、お金が銀行から出きにくくしたり、金利を上げてお金を借りにくくしたり、売りオペでお金を吸収したり、近隣諸国に元を準備通貨として保有を義務づけたりしている。

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大正時代の日本はそのような努力は全くしていない。それどころか1916年3月には公定歩合の引き下げを行っている。戦争特需で大成功した自信で、限りない発展をする日本をイメージしており、インフレを気にせず積極財政を続けている。軍備を増強して将来の戦争に備えることが念頭にあったのだろう。しかし、海外からの需要の急増に生産が間に合わず、ボタンを糊付けしただけの衣服を輸出したとのエピソードもあるくらいで、粗悪品でも何でも売れた。その反動で1918年11月の休戦により、ヨーロッパの企業が戻ってきて競争に勝てなくなり、海外需要の減少、物価の下落で経済は大きな打撃を受けた。

ところが、翌年の1919年には、再び経済は根拠の無い熱狂的なブームになり、地価、株価、商品相場などが異常な高騰を示した。学校の先生やサラリーマンなど、ありとあらゆる人々が株などの投機に熱中していた。株価が38915円の最高値をつけた1989年にそっくりだ。無謀にも銀行も設備投資に積極的に応じた。次の企業新設及び拡張計画資金のグラフをみれば、その異常さが分かる。

出所:望月和彦『大正デモクラシーの政治経済学』

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特需が終わり外需が減少し、設備投資が過剰になっていたのだから、この大正バブルは間もなく終わり、その反動が一気にやってくる。特需でインフレになったのと逆のことがバブル崩壊で起きた。輸出減少で再び貿易赤字となり、輸入を維持するには円を外貨に交換してもらわねばならないのだから、円が市中から消えていきデフレとなった。株、商品相場等も大暴落した。投機に走っていた人、企業が次々自己破産、倒産をし、銀行の取り付け騒ぎが続発し、休業が相次いだ。当時は預金者保護の仕組みが無かったので銀行が危なくなればすぐに取り付け騒ぎとなった。それに対し政府は緊急融資で対応した。この頃の経済をしっかり学習していたら、1989年のバブルとその後のバブル崩壊に伴う不良債権問題の発生は無かったろう。この1920年不況によるダメージは昭和恐慌より大きかったというのが鈴木正俊氏『昭和恐慌に学ぶ』の主張であり、その比較は次の表で分かる。

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1920年不況を深刻にしたのは、「退場すべき企業は退場すべき」という考えであり、小泉・竹中路線でもあった。政府の失政によりバブルを発生させ、失政によりバブル崩壊となったのに、企業が潰れるのは企業に責任があると政府が決めつけた。このため、不況を深刻にさせ景気回復を困難にした。実際は政策の失敗のために退場させるべきでなかった企業を多数退場させてしまった。

1904~1905年の日露戦争、1914~1918年の第一次世界大戦、1931年の満州事変と続き、この時代は常に戦争と向き合わざるを得ない状況で、軍事支出が増大しやすかった。少なくとも大正時代には外国からの借金は気になっても、国債残高の増大にはそれほど気になっていなかったように見える。次の図は債務(国債発行残高)のGNP比である。

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景気がよく、積極財政を行っていた第一次世界大戦中には債務のGNP比は減少。しかし、デフレが続いた1920年~1930年の間では、債務のGNP比は徐々に増加している。高橋是清の積極財政(大量の国債発行)で経済が立ち直った1931年~1936年になると増加は止まり、減少に転じている。これを見ても、景気が悪ければ国の借金(国債発行残高のGNP比)は増えていき、大量国債発行で景気を回復させれば実質的に借金は減るのだと分かる。

大正バブルで発生した過剰な投資が、その後の日本経済の足を引っ張った。更に悪いことに。1923年には関東大震災が発生し、日本のGNPの約3分の1の45億円の損害を出した。これに関連して発生した負債が金融恐慌の震源地になった。

1927年には台湾銀行の営業停止をきっかけに大規模な取り付け騒ぎが起きた。昭和金融恐慌が発生し、高橋是清蔵相は井上準之助日銀総裁と協力し、3週間の支払猶予措置(モラトリアム)を行った。全国的な金融パニックを収めるために紙幣を増発した。印刷が間に合わず、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。現在は通貨も預金が中心であり、預金が守られている限り同様な金融パニックは起こりそうもない。

10年以上続いた不景気・デフレの最終章で国全体が恐ろしい集団催眠にかかってしまう。デフレの中で「緊縮財政」を肴に盛り上がったのだ。国民は〈お前塩断ち、私茶断ち〉〈うれし解禁とげるまで〉と「緊縮小唄」(西条八十作詞、中山晋平作曲〉を歌って金解禁を歓迎した。1930年は国債発行額を0にするための超緊縮予算となった。公務員給料の引き下げも行われた。

なぜこの不景気の中で緊縮財政を行うのかというと、貿易赤字が続いており、それを改善するということだった。なぜ金解禁(つまり金本位制への復帰)が必要だと考えていたのかというと、諸外国が次々と金本位制に復帰していたことと、それが為替の安定につながり貿易を促進に経済発展に必要だと考えたからである。井上準之助蔵相はIMFに影響を受けていたのだろう。IMFは資金融資の見返りに、経済の緊縮政策を要求する。つまり緊縮財政によって国際収支の均衡を図ろうとする。デフレ下での緊縮財政に加え、1929年に始まった世界大恐慌が事態を更に悪化させ、日本経済は昭和恐慌へと突入していった。

昭和恐慌前夜のこの危険な集団催眠に関しては現在の日本と多くの共通点がある。
①バブル崩壊後デフレが続いている。
②デフレなのに増税・歳出削減の議論が盛んである。
③緊縮政策に国民が理解を示している。
④IMFの影響を政府が受けている。
⑤公務員給与の削減を主張している。
⑥銀行の経営危機は何度も経験した。
⑦国債発行を抑えようとしている。
⑧不況で株価も下がっていた。
⑨円高容認の声も強かった。
⑩借金で歳出を計ってはいけないという論調。
以下に株価の動きを示す。高橋財政によって経済が持ち直す前は、株価は下がっていた。

出所:明治以降本邦主要経済統計 日銀

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井上蔵相により、1930年1月に旧平価での金解禁が断行された。旧平価ということは、円高にするということだ。通貨発行を拒否する菅内閣は事実上円高容認ということで、井上蔵相の政策と似ているとも言える。円高にするということは、日本製品のすべてを一斉に値上げすることに相当し、そうでなくても競争力の弱い日本製品が売れるわけがなかった。実際、翌年の1931年には、輸出は解禁前の半分に落ち込んだ。金解禁に反対した高橋亀吉は「財界攪乱罪」で警察に引っ張られた。マスコミは彼を「非国民」扱いにした。マスコミの偏向は現代も変わらない。

金解禁ということで、人々はお金を金に替え始めた。日銀の正貨準備は激減し1931年末に4.7億円と金解禁の前に比べ半減した。金本位制では金保有高が減れば、通貨もそれに比例して減らさなければならず、デフレが加速した。金が出て行く理由は簡単に説明してみよう。平価での金解禁ということは、国が金(ドル)を大安売りするということ。しかも国は金を少ししか持っていない。となると、今貯金を全部下ろして、金(ドル)を買っておけば、間もなく国は大安売りを止める。そうすれば、金(ドル)は値上がりし、そこで金(ドル)を売れば、大もうけができる。実際ドル買いをして儲けたのは住友、三井、三菱などの財閥だった。結局金本位制は2年弱で終わった。

1931年12月、政友会の犬飼内閣が成立し、新しく就任した高橋是清蔵相は金輸出を禁止、金本位制から離脱、そして積極財政による経済の立て直しを計った。それにより、日本は世界で最も早く世界大恐慌から立ち直ることができた。

出所:鈴木正俊

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最後に強調したい事は、デフレ経済で歳出削減や増税などの緊縮財政を行うことは、極めて危険であるということだ。多くの国民が消費税増税に賛成しているということは、昭和恐慌前夜と同じような非常に危険な状況に日本が陥っていると言える。

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2011年1月10日 (月)

昭和恐慌に学ぶデフレ脱却法(No.33)

昭和恐慌の前には、やはりバブルがあった。下の物価指数のグラフを見ていただきたい。1914~1918年の間、第一次世界大戦参加国が輸出する余裕を失ったことや、参戦国からの軍備品需要のため、日本の商品への需要が急増し、輸出が大幅に伸び、経常収支は大幅な黒字となった。これに対応し、生産力は飛躍的に増大、わが国経済の画期的発展の好機が到来した。原敬内閣(高橋是清蔵相)の財政拡大、金融緩和政策もあり、日銀券の発行も激増、年率30%を超す経済成長が続いた。ただし、物価の値上がりも激しく、実質成長率は年率2%程度だった。商品投機・土地投機・株式投機が発生した。日本の商品は、欧米に比べ競争力は劣ったが、戦時中は欧米はアジアに出てこなかったので、中国などに進出できた。そこで設備投資計画も十数倍に増加し銀行も積極的に融資に応じた。1990年前後で起きたバブルにそっくりだ。

1920年株式市場が大暴落し、反動恐慌が勃発した。戦後欧米企業が進出してきて、売れなくなった。そこで輸出が減少し、生産設備が過剰となり遊休化した。大量の不良債権も発生。1923年の関東大震災も事態を悪化させ、1927年には金融恐慌も発生した。

出所:長期経済統計 国民所得 東洋経済新報社

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「失われた10年」の最後に、昭和恐慌を引き起こした浜口内閣は、小泉内閣と非常によく似ていると言われている。両者とも国民に対し「緊縮財政の痛みに耐えよ」と訴え、デフレ下の緊縮財政を強行した。浜口首相は1929年8月28日に「全国民に訴う」という署名入りの宣伝ビラを全国1300万戸に配布した。同日午後七時すぎには、全国中継放送で首相は国民によびかけた。「・・・今日までの不景気は底知れない不景気であります。前途暗澹たる不景気であります。これに対して、緊縮、節約、金解禁によるところの不景気は底をついた不景気であります。前途に皓々たる光明をのぞんでの一時の不景気であります。・・・我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで、後日の大なる発展をとげなければなりません。」

デフレ下での緊縮財政が成功するわけがなく、それに対する多くの批判があった。例えば三土忠造は『経済非常時の正視』の中で次のように批判している。

「一般国民は、経済上の知識が乏しく、唯古来の道徳上の教訓によって、節約と言えば無条件に誠に結構なもののように考えるのは無理もないことである。即ち自分だけ節約した場合と国民挙って節約した場合とを混同したのである。世間一般の人は従来の通りの生活をしていて自分一人節約した場合には、その節約しただけ懐に余裕ができることは言うまでもないが、世間一般が挙って節約した場合には、これとは全然相反する結果を来すのである。・・・国民挙って節約すれば、他人の生産した物を買うことが減少すると同時に、自分の生産した物の売行も減少する。従って売買の中間に立つ取引運搬等も減少して結局生産消費取引の減退、言い換えれば経済生活全体の縮小に終わって、国民の多数は消費節約による支出の減少よりも、生産品の売行不振・価格の下落・商取引の減退による収入の減少の方が大きくなって、国民全体の懐具合が悪くなるという結果になるのである。有益無益を問わず、ただ消費の節約と言うことは、道徳場から言っても意味を為さず、又今日の経済生活から言っても決して産業の振興、貿易の発展を促す所以ではない。」

 デフレの下で、歳出削減と増税を検討している今の政府は、この批判をよく読んで教訓にすべきだ。すでに述べたように1920年代から続く「失われた13年」に終止符を打ったのは、高橋是清蔵相の大規模な景気対策であった。
出所:長期経済統計 財政支出 東洋経済新報社

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高橋蔵相による積極財政は1936年度まで続き、デフレは終わり、世界大恐慌から世界最速で景気回復したと高く評価されている。しかし、1936年、2・26事件で高橋是清は暗殺され、その後は軍部の独走で、行き過ぎた国債発行により過度のインフレ経済へと移っていく。

下図は、国の債務のGNP比である。高橋蔵相による積極財政で巨額の赤字国債の発行により、国の債務は激増した。しかし、GNPも同時に激増したわけで、債務のGNP比を見ると、むしろ増加が止まり減少が始まっていた。それ以前、緊縮財政で借金を減らそうとして昭和恐慌を引き起こした時代には、GNPが減ってしまい、債務のGNP比は増えてしまったことが分かる。参考までにだが、第一次世界大戦では、日本は輸出が急増し、成金が続出、銀行も設備投資に積極的な貸し出しを行い、経済は拡大しバブルが発生しインフレになった。財政拡大によるインフレではなかったために、国の債務のGNP比は逆に減少している。その後、バブル崩壊後の「失われた13年」では、デフレの中、国の債務のGNP比は増加を続けているのも、平成のデフレと共通している。

出所: 明治以降本邦主要経済統計 日本銀行統計局編

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以下に名目GNPを示す。第一次世界大戦をきっかけにバブルが発生し、GNPが急激に増大し、その後1919年~1931年の間不況が続きGNPが伸びなくなっている。「失われた13年」である。14年目には高橋是清の積極財政が始まり見事GNPは急増し始めている。

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それに対して、現代は失われた20年の後に、行われているのは増税論議だけであり、このままでは更に20年失われ、結果として日本は果てしなく貧乏な国へと変わっていくことになるのではないか。

最後に株価指数のグラフを示す。昭和恐慌まで急落し、積極財政が始まってから急騰が始まっている。平成は、株価の下落ばかりの20年だったのだが、積極財政でこれを反転させようではないか。

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2010年12月29日 (水)

ドイツのハイパーインフレの原因と収束方法(No.30)

日本の借金が膨れあがり、やがてハイパーインフレになると言う人がいる。そう言って国民を恐怖に陥れれば、本も週刊誌も売れるから、悪徳業者達は金儲けのために、そのような発言を繰り返す。純真な国民は、すっかりそれに騙される。ドイツのハイパーインフレは有名だが、その実体を知れば、現在の日本の状況とは余りにも異なっており、日本はハイパーインフレなどになる可能性は全くないことが理解できる。

第一次世界大戦に敗北したドイツは連合国と1919年ヴェルサイユ条約に調印した。ドイツの支払う賠償金が1320億金マルクと決定されたが、なんとこれはドイツの税収の十数年分に相当した。毎年の支払額も46億金マルク(歳入の約7割)という莫大なものだった。イギリスやフランスなどの連合国は戦争に勝ったものの戦争で莫大な被害を被っており、その費用をすべてドイツに支払わせるべきだと主張し、このような巨額の賠償金の請求となった。しかしながら、このような巨額の賠償金はドイツ経済を破壊し、ヒットラーの台頭を許したという意味で、連合国にとって害あって益なしという結果になってしまった。

そもそも、賠償金というものは多ければ多いほどよいというものではない。1320億マルクと言っても、例えば1億マルク紙幣を1320枚刷れば返済可能というものではなかった。賠償金も正貨(金貨)で払わなければならなかったからだ。そういう意味では、お金を刷っても意味はなかった。賠償金だけでなく現物納付の義務もあった。5000両の機関車、15万両の列車、5千台の貨物自動車、4万頭の牛、12万匹の羊などだが、一般社会の賠償請求とは話しが全然違う。これらをドイツが生産してフランスが輸入しようとすると、フランスの生産者には大打撃になってしまい、フランスの生産者が反対するなどして、物納による賠償も進まなかった。

賠償金にしても、もしこの規模の賠償金の支払いが実現するとしたら、ドイツ経済が大発展し、近隣諸国がドイツの工業製品を輸入して外貨を稼いだ場合だから、そうなれば近隣諸国の工業は破滅する。そのことを予知したケインズは、この賠償額に強く反対したが押し切られた。

当然のことながら、賠償金の支払いは滞るようになった。それに怒ったフランスとベルギーは軍を派遣し、ドイツでも有数の工業地帯であるルール地帯を占領してしまった。ただでさえ戦争で生産応力が落ちているドイツで、ルール工業地帯まで没収されたわけで、失業者は町にあふれ、物不足でインフレとなった。ここまでくるとフランス軍はやり放題で、帝国銀行が所有していた128億の金を略奪し、ミュルハイム国立銀行支店に保管されていた未完成の紙幣をフランス軍が奪い、これを完成紙幣にして流通させた。ここまでやるとなると、こっそり偽造紙幣を新規に大量に印刷していたと考えてもおかしくない。

筆者の想像だが、中央銀行であるライヒスバンクも外人が乗っ取り、お金を刷りまくったと考えるのが自然ではないだろうか。ライヒスバンク自体が賠償問題の解決の一貫と考えられていたから連合国により国際管理されていた。その審査機関である評議員会の14名のうち、半数の7名は外国人(英国、フランス、イタリア、ベルギー、米国、オランダ、スイスから各1名)が任命され、発券業務の監督機関としての発券委員も外国人評議員が任命された。そしてこのライヒスバンクが政府から独立し、お金を刷りまくってハイパーインフレになった。このような状況は、アメリカにおいて通貨強奪したロス・チャイルド等の国際銀行家の手口を連想させる。

http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/no22-c6e3.html
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/no-d68c.html

コーヒー一杯飲むのに、トランク一杯分の紙幣が必要だったとか、薪を買うのにリヤカー一杯の紙幣が必要だったが、それより紙幣を燃やした方が安くついたとか、笑い話のような話しが伝わっている。1923年1月には250マルクであったパンの値段が1923年12月には3990億円にまで値上がりした。

ライヒスバンクはドイツ政府が発行した国債を大量に買った。それだけでなく、私企業の手形の割引も行った。例えば、自分の会社で1億マルクの手形を勝手に作ってライヒスバンクに持って行けば、現金にしてもらえるのだ。こんなことをしていれば、ハイパーインフレになるのは当たり前だろう。金融業の得意なユダヤ人がここぞとばかり、混乱に乗じて荒稼ぎをしているのを見て、ヒットラーがユダヤ人に反感を持つようになったと言われている。

こんな状況が日本に起こりうるかと言えば、あり得ない。少々国債を発行したと言っても、十分制御可能な範囲であり、日銀が外人部隊に乗っ取られる可能性は全くないし、ましてや自分で勝手にお金を刷り始めることなど考えられない。外貨や海外純資産は、世界一多い。外国から巨額の賠償金を求められているわけでもない。物不足は発生しておらず、むしろ物余りだ。ハイパーインフレなど起こるわけがない。

このすさまじいドイツのインフレも、あっという間に収束してしまう。ドイツ・レンテン銀行が設立され、国内の土地を担保として1923年11月15日にレンテン・マルクを発行し、1レンテン・マルク=1兆マルクのデノミが実行された。インフレを収束させたのは、政府が財政健全化を発表したからである。レンテン・マルクの発行限度が320億マルク、政府信用限度が120億マルクとされた。またドイツ政府は通貨発行でファイナンスしていた財政政策を転換し、10月27日には政府雇用者数25%削減、臨時雇用者の解雇、65歳以上の強制退職を実施した。この政府の発表により国民が政府を信頼し、インフレは瞬時に止まった。これをレンテン・マルクの奇跡と呼んでいる。次の図は藤木裕(金融研究2000.6)から引用したものである。

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興味深いのは、インフレは政府のアナウンスで一気に収束したのだが、実際は政府はその後もしばらくお金を刷り続けているということがこの図から分かることだ。アナウンス効果が如何に絶大かということである。ドイツと同様に第一次世界大戦の敗戦国になったオーストリアも同様にハイパーインフレとなったが、1922年8月に国際連盟がオーストリアの財政制度改革に着手することが報道されると瞬く間にインフレが収束した。次の図も藤木裕(金融研究2000.6)から引用する。

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オーストリアの場合も、財政健全化の報道が流れて直ぐにインフレは収束した。制御不能のインフレなどあり得ないことが分かる。その報道の後、しばらく通貨発行は続くが、インフレ再発は無かった。

以上述べたように、現在の日本はハイパーインフレの心配は全くないし、インフレは制御可能だ。恐れず、大胆に経済復興のための大規模財政出動をすべきである。経済が活力を取り戻し、財政が健全化することは間違いない。

http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-bd0c.html

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2010年12月23日 (木)

ルーズベルトとヒットラーの景気対策の比較【1】(No.28)

 最近ルーズベルトとヒットラーの大恐慌後の景気対策の比較が話題になるようになった。それは武田知弘著の『ヒットラーとケインズ』と『ヒットラーの経済政策』の2冊の本に影響を受けているように思える。結論はルーズベルトのニューディール政策は中途半端で完全な景気回復を達成できなかったが、ヒットラーは完璧な景気対策でドイツ経済を完全に立ち直させたというものだ。

 ある意味でこの表現は正しいのだが、その論理に無条件に賛成できかねるところもある。武田氏の2冊の本が、ヒットラーを美化しすぎていることには違和感を覚えている。筆者はドイツ(当時は西ドイツ)に通算約7年住んでいたのだが、ユダヤ大虐殺を行い、世界を戦争に巻き込んだヒットラーに対する憎悪の念はドイツの内外で消えていない。このような本を書くときは、そういった気持ちへの配慮が必要だと思う。

 しかしながら、景気対策という点に限れば確かにヒットラーの方が優れていた面もある。ヒットラーもルーズベルトも政権の座についたのは1933年である。景気対策で最も重要なのはその規模だ。有名なニューディール政策は1933年に始まった。アメリカの財政規模をグラフで示す。増やしたり減らしたりして途中で再び景気を悪化させている。

図1

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 一方では、ヒットラーは次のグラフのようにどんどん財政支出を増やし続けた。

図2

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 両国のGNPの推移を、1929年を100として次の図で比べた。

図3

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 両国のGNPの回復は1937年までは、ほぼ一致しているがそれ以後は、ドイツが一直線に景気回復をしたのに比べ、アメリカは1938年に不況(ルーズベルト不況と呼ばれる)に逆戻りしている。これは、図1で分かるように1937年と1938年に「財政再建」のためとして財政規模を縮小したからであって、中途半端な時点で緊縮財政に転じたら、また逆戻りをしてしまうということを示している。実は、日本は20年間この繰り返しをやっている。緊縮に移るのが早すぎたということは、失業者数の推移を見ればもっとはっきりする。

図4

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 大恐慌の始まる前、1929年以前にはアメリカの失業率は1%~4%程度だった。ニューディール政策実行後も失業率はそれほど下がっておらず、不十分な景気対策であったことが分かる。それに比べドイツの景気対策は十分であり、1936年には、失業率は恐慌以前の水準以下になったにも拘わらず、更に景気対策を進めており1939年には2.2%にまで下がっている。このグラフからも、1936年からアメリカでは緊縮路線に転換したのは時期尚早であったことが分かる。

 残念ながら、アメリカのような民主主義国家では様々な人が勝手な発言をするために、大多数の人が間違えた判断をすることがある。1935年12月に行われたギャラップの調査によれば、「いま予算を均衡させ、公債償還を開始することを必要と考えるか」という質問に対し、賛成は70%、反対は30%だった。緊縮財政に転じた結果、1937年9月から1938年5月までの9ヶ月間に工業生産は33%も低下し税収も予想を下回った。このとき、日本で「失われた20年」の間に行われたと同様な議論がなされた。つまり財政再建を優先させるのか支出を増大させて景気を回復させるのかという議論である。日本では緊縮路線に戻るのだが、当時のアメリカでは積極財政派が勝ち、景気は回復している。もっとも、この財政支出増大は、第二次世界大戦の前夜であり、世界各国が軍事支出を増大させていた時であり、アメリカも例外ではなかったという事情がある。

 このように書くと、ヒットラーの経済政策は正しく、ルーズベルトの経済政策は正しくなかったと結論しているように思うかもしれないが、必ずしも結論はそれほど単純ではない。そのことを次に述べる。

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ルーズベルトとヒットラーの景気対策の比較【2】(No.27)

 No28においては、ヒットラーの強力な景気対策によって、ドイツ経済は完璧に立ち直ったが、ルーズベルトの景気対策は不十分であったことを述べた。

http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/index.html

それでは、ヒットラーの過激な景気対策によってドイツはインフレにならなかったのだろうかという疑問がわくが価格統制により安定していた。ドイツインフレ率を次に示す。

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 1933年から1939年までにGNPは1.86倍になったが、消費者物価は1.07倍にしか増えていない。次のグラフでこの頃の賃金はどうだったかを示す。

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時間当たりの名目賃金は更に安定していた。消費者物価がゆるやかな上昇を示していることを考えれば、実質賃金はゆるやかに下がっていた。しかし失業率が大幅に減少していったことを考えれば、労働者全体の賃金の合計は上昇していった。

 GNPを押し上げたのは消費ではなく、政府支出である。次に軍事費まで含む公共投資のGNP比を示す。明らかに大きな政府に移っていることが分かる。

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 ナチスの公共投資としてよく知られているのはアウトーバーンの建設である。1933年~1944年で4000kmのアウトーバーンを建設した。日本は1963年~2009年で6000kmの高速道路を建設しただけであることを考えれば、大変なスピードである。政府が軍事費だけにお金を使っただけなら、GNP増大で国民が受けた恩恵は失業率の低下によるものだけかと思うかも知れないが、アウトーバーンをはじめ、住宅建設、都市再開発など様々な政策で国民を豊かにした。1951年に西ドイツで行なわれた世論調査では、半数以上の人が1933年から1939年までがもっともいい時代だったと答えている。
 
 しかしながらヒットラーはやがて悲惨な最期を迎える。ゲルマン民族さえよければ他はどうなってもいという自己中心的な考えのナチスが最終的に敗北したことは世界にとっては幸運なことだった。ナチスはユダヤ人の富を収奪し、ユダヤ人を大量虐殺までおこなった「ならず者」政権だが、最初から無謀な経済発展だと言うこともできる。

 他国を敵に回してでも自国を発展させようという利己的な考え自身が無謀な試みだった。決定的なのは資源の不足だ。1934年鉄の国内での使用量は1670万トンで、そのうち自給できたのは600万トンにすぎない。軍拡に必要な鉄の確保に失敗した。また石油の不足も致命的だった。ヒットラーは石炭から人口石油を作ろうとした。しかし天然の石油の4~5倍の値段になった。石油の利権はアメリカと英国が握っていて、石油を売るときに様々な条件をつけたため十分な石油の確保は困難だった。経済発展と共に金の保有量も激減し、輸入が困難になってきた。

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 資源が不足してきたとき、他国を占領して強奪すればよいというのが、余りにも無謀で利己的な考えだったわけで、当然の事ながら長期的な国の発展を考えれば、他国と協力して発展するしか無かったのだ。ユダヤ等、他民族との共存も経済発展には必要不可欠だ。独裁政権は短期的にはうまくいくことがあるかもしれない。ナチス政権の前半がそうだと言えるかもしれないが、後半では破綻した。ドイツが民主主義国であったなら、ユダヤ虐殺も無かっただろうし、無謀な戦争も避けられたのではないだろうか。アメリカは民主主義で無駄な議論を繰り返し、景気対策は短期的には中途半端ではあったが、資源を持ち金を持っていて、戦争に勝利し、最終的には恐慌からは脱却することに成功し繁栄した。

 その意味で、ヒットラーの経済政策が成功で、ルーズベルトの経済政策が失敗だと単純に結論づけるべきではない。

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ヒットラーの経済政策と現在の日本経済(No.26)

ヒットラーは様々な困難を乗り越えて短期間に経済を復興させたのだが、これを日本経済の現状と比べてみよう。ドイツ経済復活に貢献したのは、ドイツ帝国銀行総裁、経済大臣のポストに就いたシャハトである。シャハトは第一次世界大戦後の有名なドイツのハイパーインフレを収束させた人物であった。

結局大量の国債(あるいは国債に準じるもの)を発行して大規模な景気対策を行うことになるのだが、当時のドイツは現在の日本に比べ遙かに厳しい経済環境にあった。第一に激しいハイパーインフレの収まった直後だっただけに、再びハイパーインフレがやってくるのではないかという恐怖が国民の中にはあった。更に、第一次世界大戦の莫大な賠償金が求められていた。つまり外国に対する巨大な借金があったのだ。1930年代ドイツの歳入は56億マルクでその約半分が賠償金に充てられた。ドイツの輸出製品には26%の輸出税をかけて連合国が受け取ることになっており大変なハンディーがあった。

しかも金(外貨)も底をついているから、物不足になっても輸入で簡単に補えない。つまり景気対策を行うと需給バランスが崩れてインフレになってしまう危険が大きかった。大規模景気対策で労働力不足になると、賃金上昇が引き金になりインフレに拍車を掛ける恐れもあった。しかも経済発展の基礎となる鉄と石油の不足も決定的だった。

それに比べれば、現在の日本は景気対策を行うには、はるかに恵まれた環境だ。なにしろ外貨は100兆円以上もあるし、慢性的な経常黒字が続いている。海外純資産も260兆円もある。需要が伸びて物不足になっても、輸入すればインフレになる恐れはない。デフレが十数年も続いているのだから、大きな生産余力があり、インフレ率上昇は喉から手が出るほど求めたいことだ。平均賃金も十数年間もの間下落が続いているのだから尚更だ。鉄鉱石や石油の輸入が当面不足する恐れもない。

現在の日本であれば、物余りのデフレの時代なのだから、単純に日銀が国債を大量に買い、資金を市中に流し、その資金で国が大規模な景気対策を行うだけで、デフレ脱却も景気回復も、財政再建も可能になる。何のテクニックも必要ない。しかし当時のドイツではそうはいかなかった。物不足になってもインフレが起きないように景気対策を行わなければならず、現在の日本にくらべ桁違いに難しい技を必要とした。例えば莫大な公共投資を行ったのだが、この資金が流れっぱなしだと、インフレになる。その資金の回収システムもあった。労働者の賃金のうち一定額を積み立てれば、利子が受け取れ、しかも利子には税金がかからないという労働者にとって有利な仕組みになっていて、積立金がどんどん膨れあがり、それが国庫に戻っていた。
当時行われた様々な工夫はここでは省略するが、詳細は武田知弘著『ヒトラーの経済政策』を読んでいただきたい。アウトーバーンを完成させ、国民車であるフォルクスワーゲンを開発し、またベルリンオリンピックで国威発揚を行った。

現在の日本では、労働者の賃金を回収して需要を抑える必要は全くない。公共投資を拡大し、賃金を支払い、消費を伸ばし需要拡大が実現できれば、有り余る供給力はそれに十分対応できるからである。もしシャハトが現在の日本にやってきて、経済運営を任せられたら、いとも簡単に失われた20年からの脱却をやってしまうだろう。1兆倍というハイパーインフレを見事に収束させた彼にとって、日本で景気対策が行き過ぎてハイパーインフレになってしまうのではないかという心配は皆無だろう。

ヒットラーとルーズベルトの経済政策から我々が学ぶべき事は、大不況に陥ったときは、失業率が完全に戻るまで徹底的に大規模な景気対策をやることと、暴走を回避するために民主主義は放棄してはならないということだ。次の2つのグラフを比べていただきたい。図1は世界大恐慌前後のドイツと米国のGNPである。ピーク時の1929年から30~40ポイントもGNPが減少し、その後V字カーブで経済は回復している。力不足のニューディール政策でも約4年間で元のレベルに回復している。年間成長率約10%の急回復である。

図1

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図2は最近の日本のGDPの推移を表している。リーマンショック後の金融危機でGDPは10%足らず減少しただけで、ショックとしては世界大恐慌に比べれば数分の一にすぎない。しかもその後の景気対策の規模が小さすぎるためにV字回復になっていない。政府は2011年度の名目成長率の目標を僅か1%と見込んでいるが、それすら実現はあやしいものだ。我々はNo.7において50兆円の景気対策を5年間続ければ、景気回復・デフレ脱却・財政健全化が同時に実現すると示した。
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-bd0c.html

図2

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日本は、これだけ恵まれた経済環境にありながら経済成長が達成できないということは、如何に日本の政府・日銀が無能かということを示している。しっかり歴史を学んで欲しいものだ。

なお、1930年代のドイツが現在の中国と似ているというのがリチャード・クー氏の見解だ。確かに両方とも独裁国家で順調な経済発展を成し遂げた。しかし、ドイツは資源不足という難題に、侵略による奪略という強硬手段に訴え失敗した。現在の中国には資源不足の問題は無いし、戦争といった選択肢は存在しない。資源不足は将来的に発生するかもしれないが、戦争で解決することはあり得ない。核時代における戦争は勝者の無い戦争だ。

中国は人口が多いから大半が殺されても1億人が生き残ればまた復活できるという珍説がある。しかし、為政者はそんなことを考えるだろうか。自分が殺されても誰かがこの国を立て直してくれればよいという為政者はいない。他人の命より自分の命の方がずっと大切なのだから。自国も相手国も核で破壊されたとすると、自国も敵国も経済が崩壊する。それが自分にとってどのようなメリットがあるだろうか。現在の繁栄は、侵略によって更に改善することはできない。

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2010年12月 9日 (木)

アメリカの通貨発行権獲得のための苦闘と現在の日本(No.23)

アメリカ独立宣言の後も、アメリカは国際銀行家(ロス・チャイルド家等)による金融支配から逃れるための苦闘を繰り広げていたことはすでに述べた。
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/no22-c6e3.html

1863年に「国法銀行法」が制定された。一見すると国のための銀行、つまり日銀のようなものかと思ってしまうが、実は銀行家のための銀行である。アメリカ政府債を銀行券の発行の準備金にあてる国法銀行は資本金の3分の1に相当する国債を購入し、これを担保に財務省から担保国債の90%に相当する銀行券を受け取り、兌換請求に備えて一定の法貨(金貨、銀貨、およびグリーンバック)を準備しておき、銀行券の発行を行った。

政府貨幣を発行しているのだったら、それを全国統一貨幣にすればよいのではないかと思ってしまう。しかし、実際は国際銀行家達の協力を得なければ政府も動けないということだ。「ただ、私は国家の貨幣発行をコントロールしたいだけだ。誰が法律を作ろうとかまわない。」とロス・チャイルドが言ったことからもそれが伺える。

国立銀行と言えども、その設立のための資本金は国際銀行家が出している。巨額の資本金が無ければ、誰もその銀行を信用しない。その資本金で国債を買う。その国債を担保に通貨を発行する。こうすれば、永遠に国はこの銀行に国債に対する利子を払い続けなければならない。しかも通貨発行権も、どこに融資するのかも、国際銀行家の自由自在ということになるのだから、アメリカは独立宣言後も、最も重要な部分を国際銀行家に奪われていたことになる。

真のアメリカの独立は政府紙幣を発行して国民のための政治をすることだ。人民のための政治をしようと政府紙幣を発行したリンカーンも、同様な努力をしたその他の大統領も暗殺されたと前回引用した宗氏の本に書いてある。暗殺の事実はあったとしても、その目的を特定することは難しい。しかしはっきり分かっていることは独立後も通貨発行権の完全な確保ができず、国債に対する巨額の利払いに苦しめられていたことだ。

前回も述べたが、当時のアメリカと現在の日本は類似点が多い。平成23年度の予算を見ると良い。

支出
  一般歳出(地方交付税も含む)   70兆円
  国債費                     24兆円
  財投                        16兆円
  国債償還                   110兆円
収入
   税収                      40兆円
      その他の収入                 4兆円
   国債発行                 170兆円
    (新規 44兆円  借換債110兆円  財投債 16兆円)

税収が40兆円のときに、利払い等の国債費が24兆円、つまり我々の税金の実に6割が金融機関への助成金に使われている。それが国民を苦しめている。リンカーン時代のアメリカよりひどい。リンカーンが日本にいたらきっと言うだろう。税金は人民のために使えと。国債費はこれからどんどん増える。内閣府発表では2023年には税金のすべてを使っても国債費は払えなくなる。実際は内閣府の予想以上のペースで国債残高が増えている。40兆円の税収のときに、総額170兆円もの国債を発行している。破綻の可能性は無いにしても早く改革をして、税金は国民のために使うことができるようにすべきだ。

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 イギリスの改革案は、国債発行を減らす素晴らしい案である。
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-a945.html

政府貨幣発行も別な改革案であり、多くの経済学者が提案している。例えばディラードは、ロングベストセラーの『J.M.ケインズの経済学 : 貨幣経済の理論』[1950]の中で、需要不足のときは、赤字国債を大量に発行するのでなく政府貨幣を発行せよと述べている。114~115頁(第21刷では139頁~140頁の無利子資金調達法)から引用する。

 ケインズは述べていないが彼の利子の性質に関する理論から見れば当然問題となる財政政策の側面は、遊んでいる資源を働かせる計画をもって行われる公共支出のための資金を無利子で調達する方法はないかという問題である。借り入れ支出によって公債が増加し、公債に対する年々の利子支払額がかさむ。・・・赤字財政に対する大きな反対が現れる根拠が借入元金や公債に対する諸経費がかさむという点にあるとすれば、社会として遊んでいる資源を動員するのに必要な貨幣を獲得するために、銀行その他に利子を支払わなければならぬ理由について疑問が生じる。経済の発展に必要な新貨幣を発行するのに市中銀行に莫大な利子を支払うという形で市中銀行に補助金を交付する必要がいったいあるだろうか。

新貨幣の発行は政府の機能に属するのが適当ではないか。もしそうだとすれば、政府が直接新貨幣を発行して市中銀行に公債利子を支払わなくてすますことを妨げるものは何かあるか。・・・市中銀行が受取る利子所得は少しばかりの事務的サービスを遂行する費用を支払うに必要な金額を除けば、独占料金であって銀行の純粋な犠牲や機能に対する報償ではない。政府公債には危険性は極めて少なく、無危険投資に最も近い存在であると考えられ経済的根拠は存在しないようである。

・・・無利子融資政策は必ずインフレーションを引き起こすという反対論に対しては雇用の一般論の立場から容易に答えることができる。諸資源が使われていないで遊んでいる場合には、貨幣支出の増加は物価を引き上げず、むしろ雇用を増加するであろう。完全雇用の点を越えれば、更に貨幣の膨張を行う必要性はなくなる。完全雇用が達せられた後までも貨幣膨張が継続するならば、インフレーションが生ずる。しかし、これは貨幣膨張それ自身の結果であり、その実施方法によってはそのような結果は現れない。例えば、利付公債であってもそれを市中銀行にあまり多く売りつけすぎるとインフレーションを引き起こすことはあり得る。実際貨幣供給の操作を誤ればインフレーションを引き起こしたり、デフレーションを引き起こしたりするであろう。上述の反対論は政府貨幣発行の反対をしているのでなく、管理通貨制度そのものに反対しているのである。

お分かりだろうか。日本は国の借金の膨大な利払いに苦しめられている。しかし、次の3つのうちのどれかを採用すれば、日本をこの苦しみから永遠に解放できるのだ。今こそ決断の時だ。それによる弊害は消費税増税の弊害の1000分の1しかない。

①英国の改革案を受け入れること

②日銀に国債を大量に買わせること

③政府貨幣を発行すること

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2010年12月 4日 (土)

アメリカ経済史に見る通貨発行の意義(No.22)

日本人は、経済を拡大するためには市場に出回る通貨の量を増やさなければならないのだということを忘れている。デフレの時、それができるのは国だけだ。その重要さを理解するためにアメリカにおける通貨発行の歴史を学ぶのは意義がある。

アメリカにおいて、紙幣が使われるようになる前は、動物の毛皮、貝塚、タバコ、米、小麦、トウモロコシなどを代替貨幣に使用していた。今でもドルの事をバックとよぶことあがあるが、これは先住民と開拓者の人々の間での物品交換の決済手段の単位として鹿の皮が使われていたため、雄鹿「BUCK」の皮が利用されたことからきている。

アメリカ独立の前は、「植民券」を独自で発行し流通させ発展しつつあった。しかし、イギリスは植民地アメリカへの課税と支配を強化し、1764年には英国議会が「通貨法」を決議し、アメリカ植民地の各州が独自の紙幣を発行することを禁止した。本来植民地から富を奪取することは難しい。ある意味で「採算」が合わず、いずれ植民地を放棄せざるを得なくなることがほとんどである。しかし、通貨発行権を奪うということは、極めて効率のよい富の奪取の方法となり、イギリスが狙ったのはこれだった。奪われてなるものかとアメリカも闘った。これが1775~1783年のアメリカ独立戦争だ。資金を持たないアメリカは政府紙幣を発行し戦費を捻出したが、それが乱発され政府紙幣の価値が暴落した。

1776年アメリカは独立宣言を行い、翌年アメリカ合衆国憲法が採択され初代の大統領にワシントンが就任した。宗鴻兵著『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』によれば、当時の財務大臣のハミルトンは、ロスチャイルド家と浅からぬ因縁を持つ人物で、ロスチャイルド家からの援助を受けていたという。彼が第一アメリカ合衆国銀行を設立した。政府の貨幣財産と税収を中央銀行に預け、中央銀行は経済の発展の需要に応じて国家の通貨を発行し、アメリカ政府に融資を行い、同時に金利を徴収した。資本総額1000万ドル、5分の1は連邦政府の出資、他は一般からの公募そのうち700万ドルをイングランド銀行やロス・チャイルドが名を連ねた。

要するに現在の日銀とは大違いだ。日銀も資本金1億円の銀行でその半分を国が、残りの半分を民間が持っているが、株主には何の権限もなく、配当金も驚くほど少ない。資本金が十分だということで円の信認が得られているわけではない。それと違い、第一アメリカ合衆国銀行では、発行する通貨の信認を得るためには、十分な資本が必要だったわけで、そんなお金を出せるのは、世界一の金保有高を誇ったイギリスであったし、ロスチャイルドであったというわけだ。しかも銀行経営は完全に株主に牛耳られていた。結果として投機目的の外国資本の導入を促進することとなり、産業発展のためにはお金が流れなかった。やがて貸し付け需要が増大し外国銀行(主にイギリス)から資金を借りることとなった。

1801年ジェファーソンが大統領に就任したが、第一アメリカ合衆国銀行が特定の商業資本の利害に動かされていたことに反発していた。例えば通貨発行権を持つ日銀が露骨にアメリカ資本に有利になるように営業をしていたら、日本人は激怒するに違いない。同様にアメリカ人に嫌われていた第一アメリカ合衆国銀行は1811年に閉鎖された。

すると利権を失いたくないイギリスがアメリカへの干渉を強めたため1812年英米戦争が勃発した。やはり資金不足のアメリカは政府紙幣を発行したが、結局1815年アメリカ政府は降伏した。結局2つ目の中央銀行である第二アメリカ合衆国銀行が1916年に誕生することとなり、その資本の20%を政府が、残りの80%を個人が占めた。ここでも再びロスチャイルド家がしっかりと銀行の実権を握ることとなり、やはり銀行は株主の利益のための運営を行っていたので、再び国民の不満は高まった。

1832年にジャクソンが大統領に就任すると第二アメリカ合衆国銀行を閉鎖することを決めた。しかし、第二アメリカ合衆国銀行のビルド総裁はロスチャイルド家の後ろ盾があり、抵抗した。銀行更新のための法案は議会で可決した。大統領が拒否権を使うかもしれないとの憶測にビルド総裁は「ジャクソン大統領が法案を否決したら、今度は私がジャクソンを否決する」と言ったが、結局大統領は拒否権を使い、1836年第二アメリカ合衆国銀行は閉鎖された。

しかし、その報復として国際銀行家による締め付けがあり、1837年にアメリカ経済は恐慌に見舞われる。1836年のジャクソンにより政府の土地の売却の場合支払いは金貨・銀貨で行えという正貨通告が出されており、それも恐慌の原因になったと言われている。銀行券の流通は1837年の1億4900万ドルから1843年の5800万ドルに激減した。

通貨の供給は常に不安定で、多数の地方銀行が異なった通貨を発行し、また外国の通貨も出回っており、その交換比率もバラバラで経済は安定していなかった。そのため銀行の一部業務が一斉に停止するなどの恐慌がしばしば発生している。例えば1819年、1837年~1839年、1857年、1873年、1883年、1893年などである。これはアメリカ全土で信認を受けた統一通貨が存在しなかったことが一因である。しかし、量が不足していたものの金貨・銀貨は最も信認を受けるのが容易だった。金属自体が価値を持っていたからである。

1848年サンフランシスコで巨大な金鉱が発見された。良質な貨幣が大量に発行され、市場が活況を取り戻し、銀行が大規模な貸し付けを開始。鉄道建設が急速に進んだ。

1861年~1865年の南北戦争では、リンカーン大統領がグリーンバックと呼ばれる政府紙幣を発行した。これに怒った国際銀行家がリンカーンを暗殺したという説がある。また南北戦争前後百年の間に、国際金融カルテルとアメリカ政府の間で通貨発行権をめぐる争いが生じ、その間に7人もの大統領が暗殺されたと前述の宗鴻兵氏の本に書いてある。1963年6月7日にケネディ大統領の大統領令11110 (Executive Order 11110) によって政府紙幣が復活するが、それを止めようとして、その約半年後の11月22日にケネディ大統領は暗殺されたという説もある。

どこまでが真実かは、調べることは不可能であるが、通貨発行は、大変な富をもたらすということだけは間違いない。イギリスにとっては、通貨発行権を奪い取ることは利益確保の最後の砦だったのかもしれない。日本経済は20年もの間、停滞を続けている。その理由は通貨発行権が正当な理由もなく封印されていることに尽きる。通貨発行権を行使すれば国の借金908兆円も全く問題にならないことは明らかだ。現代は巨大な金鉱を発見しなくても、政府の預金口座である国庫の残高の数字を書き替えるだけで、デフレ脱却は可能となり国の経済は一気に活性化する。

1764年には英国議会が「通貨法」を決議しアメリカから通貨発行権を奪い取ったが、アメリカは戦争でそれを奪還した。通貨発行権は戦争に訴えてでも確保しなければならぬ大切な権利だ。今の日本では、馬鹿な一部のエコノミストやマスコミ達によって通貨発行権が奪い取られた形となっており、国の急速な没落に繋がっている。
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-cf59.html
我々の次の世代のためにも、これ以上の日本の没落を止めるために「通貨発行権を行使せよ」と、我々は立ち上がらなければならない。

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2010年11月 2日 (火)

終戦直後に復興金融公庫により大量発行された国債が日本を救った(No.11)

現在、政府が国債を大量発行して景気対策をしデフレ脱却を試みようとしないのは、終戦直後のインフレの再来を恐れているからだと言われている。しかしそれは誤解にすぎない。当時の経済を詳しく調べれば、インフレは国債の大量発行も原因の一つではあるが、むしろ物不足が原因で貨幣の流通速度の上昇したのがより大きな原因になったものだと分かる。国債の大量発行は、生産力を回復させ、物不足を解消させるための緊急措置であり、実際生産力が回復した1950年以降はインフレは起きていない。

終戦の翌年の1946年、日本のGDPは戦前のピーク1938年の2分の1まで下がり、鉄鋼の生産量に至っては戦前の7%という有様だった。外地からの復員や引き揚げによって国内人口が増加するなかで、食料物資の不足、住宅の不足が極めて深刻となり、需要が供給を大幅に上回り、それに加え終戦処理の財源を通貨発行で対応したために、激しいインフレとなった。

生産力を増強するには、電力の供給を増やさねばならず、そのためには石炭供給の増強が必須であった。石炭業では1944年まで年産5300万トンの水準だったが、中国人・朝鮮人を強制的に働かせて生産を維持していた。終戦後、強制労働が解除されると年産1000万トンを下回るまで激減し極端な石炭不足に陥った。そこで1947-1948年に基幹産業の発展を最優先する「傾斜生産方式」が実施された。

まず復興金融公庫(復金)が大量の国債(復興債)を発行し、それを日銀が引き受けることにより資金を獲得、それを石炭・電力・海運を中心に基幹産業に重点的に投入した。一般金融機関の資金供給力が低下する中、復興金融金庫による融資の割合は大きく、設備資金では1949年3月末現在の融資残高の74%は復興金庫融資で占められていた。お金を刷って復興資金にしたわけだが、これが生産回復に大きな役割を果たした変面、復金インフレと呼ばれたように、インフレを加速する結果となった。

この財政・金融政策をどのように評価すべきだろうか。もし、このような政策が行われなかったら、政府は財政難で生産力を回復させる強力な政策は出せなかっただろうし、石炭・電力・鉄鋼の生産不足が続いていただろうから、物不足つまり需要が供給を大幅に上回る状況が続きインフレは長期化しただろう。そして奇跡の経済復興はあり得なかっただろう。戦後の混乱期のような非常事態においては、通貨発行権を行使し政府に十分な資金を確保し、それによって基盤産業を緊急に育てるという政策は正しい。国民に対しては、激しいインフレに耐えてくれと、つまり暫くは痛みに耐えて日本経済を復興させようと協力を求めたわけだ。

もし、通貨発行をせず、歳出削減という緊縮財政政策を行っていたら、景気悪化でしかも物不足のインフレが続くスタグフレーションとなっただろうし、物不足がいつまでも続く絶望的な経済状態となっただろう。実際には生産力が回復してきた頃の1949年2月に来日したドッジは、「ドッジ・ライン」と呼ばれた一連の経済安定化策(超緊縮財政)を実施した。消費者物価は1948年には193%の上昇だったものが、1949年には62.7%にまで下落、1950年には-1.8%とデフレーションの様相を呈した。このことはインフレというものは、完全に制御可能である事を意味している。

その後、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争のお陰で特需が生まれ、それをきっかけに日本経済の奇跡的な復興が始まっていく。このような奇跡を起こせたのも通貨発行権という、絶大な特権を最大限に利用した結果である。国民はたしかに激しいインフレに耐えなければならなかったし、配給によって与えられる最低限の物資に頼って生きていくしかなかった。しかし、みるみる復興していく日本経済に希望を持てただろうし、しかも大量の国債発行にも拘わらず、インフレにより国の借金のGDP比は全く増えなかったから、将来世代へのツケを心配する必要もなかった。希望の光が見えていたことを考えれば現在の日本人より余程幸せだったのではないか。

筆者の提案は、あの頃を見習って第二の奇跡の経済復興を目指すことである。日本経済が活力を取り戻し、将来へのツケを消し、奇跡の経済復興が再開するのであれば、インフレを我々は我慢すべきではないだろうか。小泉流に言えば、「痛みに耐えよ」である。どの位のインフレに耐えなければならないかと言えば、すでに日経のモデルによる予測を示した。

http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-bd0c.html

 50兆円規模の景気対策を数年続けるのであれば、2~3%のインフレ率だ。そうではなくて、その10倍の500兆円の景気対策を数年続けるとかなり激しいインフレになるだろうし、将来世代へのツケは一瞬で消えてしまうが、そんな規模にしなければならない理由は全くない。2~3%のインフレ率は、どの国の国民でも我慢にして受け入れているのであり、我々も受け入れるべきだ。

 一部の識者は、この提案に対して「制御不能のハイパーインフレになったらどうするのか」と反論する。しかし、ドッジ・ラインの経験から我々は知っている。インフレを抑えるには、財政支出を削ればよいだけだ。もちろん増税、金利引き上げ、預金準備率引き上げ、売りオペ等、インフレを抑える手段はいくらでもある。しかも終戦直後が物不足だったのに対して今は物余りの時代だ。需要が供給を下回る状態を作り出すことは財政金融政策で簡単にできる。

 国の債務のGDP比を「将来世代へのツケ」と呼ぶなら、デフレを我慢しているとツケは増えていくが、インフレを我慢しているとツケはどんどん減っていく。どうせ我慢しなければならないのであれば、インフレを我慢したほうがよいではないか。高度成長期も我々は常にインフレを我慢してきた。その間、常に賃金の上昇率はインフレ率を上回り、暮らしはどんどん改善された。

約60年ぶりに通貨発行権を行使することは政治家にとって勇気がいるかもしれない。しかし、それによりデフレを脱却し、将来世代へのツケを減らし、豊かな経済を次の世代に残してやれるのなら我慢できるだろう。政治家に決断と実行を期待したい。

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2010年10月31日 (日)

戦後の混乱期を財政破綻も制御不可能なインフレも起こさず乗り切った歴史に学べ(No.10)

本屋に行くと、財政破綻とか預金封鎖とか、人を恐怖に陥れて本を売ろうとしている悪質な連中が書いた本が並んでいる。これは悪徳業者と言うしかない。戦後の混乱期と現代を重ね合わせて恐怖を起こさせる卑劣な手法に怒りを覚える。我々は、終戦直後の混乱期を当時の政治家がどのように乗り越えて、世界を驚かす奇跡の経済成長に導いたかをもっと勉強すべきだと思う。

現在、財政危機だと言われているが、終戦直後の財政は現在と比較にならないほどの危機に直面していた。国が10年物国債が1%を切る金利で売れる現代とは比較にならない。1945年の財政規模は約215億円だったが、戦時中に政府が民間(企業・個人)に支払いを約束した戦時補償(戦時保険支払いの政府保障、工場・設備・船舶などの戦時動員にともなう損失補償)だけで、総額565億円にのぼっていた。結局GHQに従ってこの補償は事実上打ち切るしかなかったし、それが企業の財務内容を悪化させ、緊急支援を行わざるを得なくなった。

戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、復員兵の帰還費用の捻出等、政府には巨額の出費が迫られた。財政破綻だ、財源はあるのかなどとのんきなことを言っている時ではなかったのであり、お金を刷って支払うしかなかった。

図1

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 刷ったお金が出回り、需要が増えそれに耐えられる生産設備があったならインフレにならなかっただろうが、戦争で焼け野原になった日本に残された生産設備は僅かで鉱工業生産は戦前水準の27.8%しかなかった。農業でも、戦時動員による人手不足で作付面積が減少したところに冷害などの災害が加わり、1945年の米作は、587万トンという記録的な凶作となった。ちなみに1940~44年度の平均は911万トンだった。人々は生きるためにモノを求めて買いあさったために、終戦4ヶ月後の1945年12月には月間のインフレ率が66.4%となり、このまま1年間続いたら1年で物価は451倍になるところだった。日銀券発行額とは桁違いの物価上昇は、需要が供給をはるかに上回り通貨の流通速度が激増した結果である。

しかし、日本人はインフレが制御不能になるのを防ぐ知恵を持っていた。預金封鎖である。1946年2月、当時の幣原内閣は既存の日銀券の日銀券を失効させ、日銀券を強制的に預金させ、その預金を封鎖した。そして封鎖預金の引き出しは毎月一定額に制限した。世帯主300円、その他一人あたり100円とし、この額で生活しなさいというわけだ。これがインフレ抑制に劇的な効果をもたらした。

図2

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 もちろん、現代は預金封鎖など全く必要はない。モノ余りでデフレの時代に終戦直後のモノ不足の時代の真似をしなければならない理由は全くない。預金封鎖で恐怖を煽っている人を見つけたら金儲けしか考えない『悪党業者』だと思えばよい。預金封鎖は過度な需要を抑えるのが目的であり、デフレの時代は逆にどうやって需要を伸ばすかを考えなければならないのだ。

このようにして刷ったお金で見事に日本経済を奇跡の復興へと導いた。インフレは制御が可能であり、生産力が回復した後は財政を健全化し(ドッジ・ライン)インフレも抑えることができた。歴史から学ぶべき教訓は、必要なときには必要なだけお金を刷って、経済を立て直しなさいということだ。それが、我々の次の世代のために我々がやらなければならぬことだろう。インフレを恐れることはない。終戦直後よりはるかに経済状況はよいし、当時でも経済を奇跡の復興にまで持って行けたのだから、今やれないわけがない。お金を刷って、第二の奇跡の経済復興を目指そうではないか。

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